本文に移動

勝坂周辺

おすすめ
  1. 徒歩
    778m
    11m
  2. 徒歩
    66m
    0m
  3. 勝坂有鹿谷祭祀遺跡出土の祭祀遺物

     この祭祀遺物は、昭和30年頃に勝坂遺跡下段部の湧水が流れる有鹿谷付近で、土地所有者による水田改良の際に発見された遺物である。
     遺物は、銅鏡7点、子持勾玉1点、菅玉1点、石製玉類112点、石製祭具(鏡形、勾玉形、剣形等)104点、石製有孔円板65点、土師器6点、玉石8点である。遺物の年代は5世紀前半から7世紀前半と考えられ、ひとつの祭祀遺跡から発見された祭祀遺物としては、種類・量ともに極めて豊富である。また、市内には同時期の遺跡は少なく、勝坂遺跡が市内唯一の祭祀遺跡であることから、この祭祀遺物は相模原地域周辺の古墳時代における祭祀の様相及び変遷を示す重要な資料である。
     遺物発見地のそばには現在でも有鹿神社の小祠が祀られ、小祠付近から湧き出る豊富な湧水が鳩川に注いでいる。この湧水は、海老名の水田を潤おす水源としても崇拝されており、海老名の有鹿神社関係者による神事「水引祭り(水もらい神事)」が現在も行われている。
     これらの祭祀遺物の一部は、市立博物館で展示公開されている。
     *出土品内訳:別添のとおり

    徒歩
    6830m
    96m
  4. 勝坂遺跡出土縄文時代草創期遺物

     勝坂遺跡では、道路整備に伴う第45次調査(平成元年~同2年実施)が行われ、縄文時代草創期の住居状遺構と土坑が各1基検出された。これらの遺構とともにこの発掘調査では、文様のない縄文土器(無文土器)の破片17点と狩猟用の石器の母岩である細石刃核1点、狩猟具の尖頭器11点、及び石器製作過程で生じた剥片などの石器が出土した。
     市内では当該期の遺跡が発見された事例は少なく、中でも勝坂遺跡第45次調査地点の出土遺物は、縄文時代の無文土器とともに、旧石器時代の石器文化の様相を残した石器群が一緒に発見された希少で重要な資料である。
     これらの遺物の一部は、市立博物館で展示公開されている。

     *出土品内訳:別添のとおり

    徒歩
    m
    m
  5. 勝坂遺跡D区出土のマメ圧痕土器

     勝坂遺跡は、大正15(1926)年に考古学者・大山柏氏によって発掘調査され、後に設定された勝坂式土器の標式遺跡である。また、大山による採集石器や民族事例の考察報告により縄文農耕論の原点となった学史的にも著名な遺跡でもある。このうち、勝坂遺跡D区は昭和48(1973)年に確認調査が行われ、翌昭和49(1974)年に国史跡に指定された縄文時代中期後葉の集落跡である。
     昭和48年調査で出土した深鉢形の縄文土器(連弧文土器)には、土器の内外面にわたって多くの種子圧痕(注)が観察された。それらの痕跡は外面の口縁部から胴部下端まで見られ、内面の頸部くびれから上位にも認められた。確認された圧痕70か所のうち、その多くはツルマメを主体としたマメ科の植物種子と同定され、50か所以上を数えた。このことから種子の多くは、器体整形時に意図的に粘土に混ぜて練り込まれたことが示唆される。

    徒歩
    m
    m
  6. 勝坂のホトケドジョウ

     ホトヶドジョウ Lefua echigonia は、日本固有種で本州、四国東部に分布し、流れのゆるやかな細流に生息する。雑食性で全長6㎝に成長する。谷戸の代表的な魚で、神奈川県内では県西部を除く主要河川のほとんどに分布しているが、生息地の大半は支流の細い流れで水量は少なく、環境が変化しやすい厳しい環境である。また、その生息地によって形態的な変異が大きく、ミトコンドリアDNA分析でも地域変異が大きいことが分かってきている。
     環境省レッドリストで絶滅危惧IB類、神奈川県レッドデータブックで危惧種Fとされている。

    徒歩
    6692m
    89m
  7. 勝坂の照葉樹林

     シラカシを中心とする照葉樹が二次的に回復したもので、相模原台地の原植生を現代に伝える貴重な天然記念物である。
     周辺はクヌギ・イヌシデ等の雑木林の名残と、シラカシ群集、ヶヤキ亜群集と考えられるヶヤキの大木などが見られる。
     低木層にはアオキ・ヒサカキ・タブノキ・シラカシ・ヤツデ・シロダモ等の照葉樹が見られる。草本としてはナガバジャノヒゲ・ヤブラン・ベニシダ・ヤマイタチシダなどが目立つ。

    徒歩
    733m
    10m
  8. 木造 不動明王坐像(磯部)

     江戸時代につくられた装飾的な意匠や技術に優れた不動明王像である。檜の寄木造、漆箔、玉眼嵌入である。高さは57.5㎝、右手に持つ鍛鉄剣の身に「願主 溝呂木助七 田所信吉」、茎に「相州住正国」の刻銘がある。胎内に種子一字を墨書した紙片がある。
     江戸時代に編纂された『新編相模国風土記稿』には「護摩堂 不動を案ず」とあり、当時は、磯部村鎮守八幡宮境内の護摩堂に安置されていたものと推定される。
     毎年3月28日に公開されている。
    旧指定年月日 昭和62年1月6日

    徒歩
    612m
    8m
  9. 磯部勝坂 石楯尾神社

     この石楯尾神社は磯部勝坂地区の鎮守として、集落を見下ろす丘の頂きにあります。
     阿修羅尊の石仏が脇に立つ鳥居をくぐると長い参道がつづき、途中、明和5年(1768)の延命地蔵があることに気がつきます。これはその頃ここに比丘尼が住んでおり、その人が祀ったものだといわれています。
     その地蔵を横目に見ながらさらに進むと121段にもおよぶ長い石段があり、これを登りきると、いよいよ石楯尾神社があらわれます。
     この神社が石楯尾神社という名称になったのは明治の初め頃のことで、それ以前は「羽黒権現社」と称されていました。羽黒山(山形県)は修験道の霊地であるため、おそらくこの神社の境内でも江戸時代には盛んに山岳修業が行われていたのでしょう。
     この神社の創建は明らかではありませんが、勝坂集落の旧家が守り神としてその鬼門の方角に建てたものではないかといわれています。
     なお、式内社の中に石楯尾神社の名が見られますが、それはこの神社ではなく、藤野町にある石楯尾神社ではないかというのが一般的な見方とされています。

    徒歩
    1014m
    15m