平成29年度版 私たちの相模原
第1章 相模原の自然と人々の生活
私たちの郷土「相模原」は,神奈川県の北部にあって,丹沢山地や富士山を望み,橋本・相模原・相模大野駅周辺などの多様な都市機能をもった相模原地域と2006(平成18)年~2007(平成19)年に合併した相模湖・津久井湖・宮ヶ瀬湖などの水源を含む豊かな自然を有する津久井地域からなっています。
かつては,冬は霜柱が立ち,春先には強い南東の風にあおられて,上ぼこりが舞い上がることも多くみられました。現在では,住宅や工場が建ち並び,このような状況は少なくなりました。
こうした自然のなかで,相模原は東京の近郊都市として発展をしてきました。
ここでは,人々の生活と自然とのかかわりを調べてみましょう。
1相模原の位置と自然
首都圏内にある相模原
私たちの郷土「相模原」の位置を調べてみましょう。
関東平野の南西部にあたり,神奈川県のなかでは,その北部に位置していることがわかります。相模原市は2006(平成18)年3月に津久井町・相模湖町,2007(平成19)年3月に城山町・藤野町と合併し,県下にある19市のなかでは横浜に次いで2番目の広さをもつ市となり,周囲は,北東側を東京都,南側を大和市,座間市,厚木市,愛川町,清川村,西側を山北町,山梨県に囲まれています。
相模小原市の位置県北の相模原と県内の市町村(津久井地域の名称は合併前のもの)
旧相模原市が誕生したのは,1954(昭和29)年のことです。江戸時代までの村が明治の町村制の施行によって7つにまとめられました。その後,座間町を加えた2町6村が,1941(昭和16)年に合併して,相模原町ができました。相模原町は,面積が108.7km2もあり当時としては全国一の広さをもっていたのです。
合併前の町や村
このような経過の後,相模原市は県下で第10番目の市になりました。
また,相模原市は東京都心からおよそ33〜65㎞のところにあり,首都圏内に位置しています。首都圏は政治・経済・文化などあらゆる都市機能が集中した,日本最大の都市圏です。そのなかで,相模原市は東京の近郊都市として,急速に都市化が進み発展してきました。
首都圏の拡大とともに,東京や横浜のベッドタウンとして,また,内陸工業地域として,相模原市は,その重要性を高めてきたといえます。2003(平成15)年度には政令指定都市に次ぐ権限のある中核市に移行し,2006(平成18)年3月と2007(平成19)年3月の津久井地域との合併を経て,2010(平成22)年度に政令指定都市へ移行しました。今後はさらに都市機能を充実させ,自然環境と共生した都市へと発展しようとしています。
相模原地域の地形
つぎに,私たちの住む相模原の地形について調べてみましょう。
相模原地域は,相模川左岸に南北に細長く広がる相模原台地の北半分に位置しています。この台地は北から南へゆるやかに傾斜していますが,これは相模川の旧扇状地であるためです。相模原地域は大きく三段に分けられる河岸段丘(かがんだんきゅう)が形成されています。
広い台地
相模原台地は数十万年前以降に形成された台地で,表面は浸食(しんしょく)があまりすすんでいません。台地北端の最高所で海抜約160m,南端の最低所は東部で約70m,西部の低地では約30mです。この台地は相模川の河岸段丘(かがんだんきゅう)で,各段の境は急な崖(がけ)となっています。
階段状に相模川に下ってみると,河岸段丘のさらに下の段には,相模川が運んできた砂や粘土が堆積(たいせき)してできた,わずかばかりの沖積低(ちゅうせきていち)地が広がっています。このように相模原地域の地形は,大きく4つに分けることができます。
相模原台地の地形
上段(じょうだん),中段(ちゅうだん),下段(げだん)のそれぞれの段丘面は,相模原面,田名原面,陽原(みなばら)面とよばれ,10〜40mの段丘崖(だんきゅうがい)によって,その境ができています。地表は富士山や箱根山などの火山灰が堆積してできた関東ローム層におおわれ,上段にいくほど厚く,厚いところでは20mぐらいの関東ローム層がみられます。
地形断面の模式図
また,段丘崖の下に湧き出る地下水(湧水(ゆうすい))を集めてできた小河川が,小さな谷をつくっています。中段の鳩川(はとがわ),姥川(うばかわ),道保川(どうほがわ),下段の八瀬川(やせがわ)がそれで,古くから相模原地域に住む人々の大切な水資源として,農業用水や飲料水に使われてきました。湧水の清水を利用して,道保川や八瀬川では,わさび田がつくられていたこともあります。
上段は相模川の川底との高低差が80m以上もあります。そのため,わずかばかりの「宙水(ちゅうみず)」と境川を除いては水の得にくい所でしたから,戦前までは中段や下段に比べると,人口の少ない地域でした。今では,官公庁(かんこうちょう)をはじめ工場・住宅が広がる市の中心地域となっています。
宙水(ちゅうみず)
台地上段では,地表から地下水面まで20m~30mの深い井戸を掘らなければなりません。しかし,同じ台地の上でも意外に浅い井戸がみられます。
これは水を通す土の層の上に,きれぎれの粘土質など水を通さない層があるため,その部分だけに水がたまり,井戸が浅くてすむのです。その部分を「宙水」といいます。
この宙水のある地表は,くぼ地になっていて,昔は水をたたえ,水田に利用されているところもありました。相模原地域では,現在は,こうした場所も開発のために埋め立てられてしまい,わずかに鹿沼公園がかつての大きな沼の一部として,その面影を残しているにすぎません。
津久井の地形
津久井地域は,相模原台地の北西端を占める旧城山町東部を除くと,ほぼ全域を丹沢山地と関東山地が占める平地の少ない地域です。
二つの山地の間を相模川が流れています。相模川や道志川などの大きな川の近くにいくつかの集落が分布しています。
津久井湖周辺の地形(国土地理院発行2万5千分の1地形図「与瀬」)
津久井地域の南側に広がる丹沢山地は,蛭ヶ岳(ひるがたけ)や丹沢山など1,500mをこえる山々が連なり,多くは山林に覆われています。北側には関東山地が広がり,東京都八王子市や山梨県上野原市と境界を接しています。
津久井地域には相模川沿いに河岸段丘が発達してきました。この場所は国道20号,JR中央本線,中央自動車道が通過し,東京都と甲信地方(山梨県・長野県)を結ぶ重要な交通路となっています。なかでも,津久井地域の北東部には相模川の南岸に比較的面積の広い段丘が広がり,この段丘に位置する中野地区は人口も多く,津久井地域の行政の中心となっています。
相模原の気象
相模原地域の気候を示すグラフを見てみましょう。夏に雨が多く,あたたかであることがわかります。したがって,典型的な太平洋岸気候であるといえます。
今も残る防風林(国道16号沿い)
春から夏にかけて南東から,秋から冬にかけて北西から季節風が吹き,私たちの生活に影響を与えています。まず目につくのは,土ぼこりの多いことです。近年では,宅地が増えてそれほど目立たなくなっていますが,特に春先の3月〜4月頃,乾燥した火山灰土が相模原の上空に舞い上がっています。市内の各所に残っている松林は,防風林としての役割も果たしていました。
相模原地域の平均気温と降水量(相模原市消防局の観測の数値を使用)
津久井地域の平均気温と降水量(津久井消防署の観測の数値を使用)
太平洋の高気圧がしだいに発達してくる夏,この地域には,雷注意報がよく発令されます。2015(平成27)年も,多いときで1か月37件もありました。これは,高温の小笠原高気圧の中へ,北方から冷たい高気圧が南下してくると,その境に前線が発達し,この前線が通過するときに,しばしば激しい雷雨をもたらすためです。
冬は,晴天の日が多く,北西から吹く冷たい「からっ風」は,一層寒さを感じさせます。冬の朝,畑などのあちこちにはたくさんの霜柱を見ることができます。
一方,津久井地域の気候は,場所によって気温や降水量に大きな違いがあります。津久井地域は南北に山が多く,西から東へ川が流れ,地形が入り組んでいることから,気温の差が大きくなっています。丹沢山地のふもとは気温が低く,城山地区の東側の平地では割合あたたかくなっています。山あいにある津久井地区の青根や鳥屋では,城山地区と比べると,1年を通して雨が多く降ります。
2 相模原の人口
増加を続ける人口
市制施行当時(1954(昭和29)年)は8万人たらずだった相模原の人口は,2007(平成19)年には70 万人を超え,県下では,横浜市・川崎市についで3番目,全国でも18 番目(2015(平成27)年10 月現在)に人口の多い都市になりました。1954 年から50 年ほどで,人口が8倍以上と急増をとげたのはなぜでしょう。その理由を考えてみましょう。
人口が著しく増加したのは,1960(昭和35)〜70(昭和45)年代で,そのほとんどが社会増加によるものです。この時期は,わが国の経済が高度成長をとげ,工業化が進むとともに,東京や大阪などの大都市圏が拡大されていったころです。
相模原でも,1955(昭和30)年に工場誘致条例(こうじょうゆうちじょうれい)が施行され,多くの会社や工場が市内に進出してきました。また,1958(昭和33)年には首都圏整備法の市街地開発区域の第1号指定をうけ,それにともなって,相模原にも都市化の波が押し寄せてきました。このとき,職場や宅地を求めて,県外や県内から多くの人が相模原に移り住んできました。さらに2007(平成19)年には,津久井地域と合併し,人口が増加しました。
人口の社会増加は1970(昭和45)年をピークに,現在は減少してきています。
人口の移り変わり(市統計書・県勢要覧)
人口の自然増加と社会増加
人口の分布
1960 〜70 年代に市内に転入した人々は,市内のどこに住んだのでしょうか。
人口増加が特に多かった1964(昭和39)年から1973(昭和48)年の10 年間の増加数を地域別にみると,小山・清新・横山・中央・星が丘・光が丘地区(旧本庁地区)をあわせてで5万3千人,次いで大野中地区で3万1千人増加しています。
特に大野中地区は,10 年間に5.3 倍もの増加を示しています。また,大野南地区,相模台地区,相武台地区,東林地区を合わせた南部では8万1千人も増加しています。
これらの地区は,いずれも横浜線沿線と小田急線沿線に位置しています。
1970(昭和45)年に市内へ転入してきた人の前住地を調べてみると,関東地方の諸県から来た人が全体の72%もありました。なかでも東京都から来た人が最も多く35.6%,ついで県内の他市町村から来た人が29.2%を占めています。東京の近郊都市として相模原が発展してきたようすが,ここでもわかります。
1964 年と1973 年の出張所別人口比較(各年10 月1 日現在)
前住地別転入者数(1970年)(「昭和47年版市統計書」より)
相模原地域の北部には,大企業や工業団地の進出によって,仕事を求めて転入してきた人が多くみられ,相模原地域の南部には鉄道の沿線に住宅団地が建設されたことによって,居住地を求めて都内から移り住んできた人が多くみられました。
一方,津久井地域では国道やJR中央線沿いに人口が集まっていますが,山間部では人口が減少し,過疎化がすすんでいます。
外国人住民人口国籍別数
外国人住民人口国籍別数
行ってみよう 「日本の近代地図づくりのスタート 相模原基線」
地図を作る際に,位置の基準を決めるために三角測量が行われます。
1882(明治15)年,そのスタートとしての最初の基線が相模野に決められました。基線の北端が麻溝村に,南端が座間村に設置されました。当時の測量では,今のようにレーザー光源を利用するのではなく,測竿といわれるスチール製のものさしが使われました。両端の基端点の間は見通しがきくように,木や草を刈って幅4メートルほどの道を作って測量が行われました。このようにして決められた相模野基線をもとにして,初めて2万分の1の地形図が作られ,後に5万分の1や2万5千分の1の地形図へと発展していきました。
Q, どうして相模原が基線の北端点に選ばれたのか当時の相模原のようすを調べてみましょう。
場所:相模原市南区麻溝台4丁目10
第2章 産業の移り変わり
私たちの相模原市は,日本の経済発展とともに,農村から内陸の工業地域として変化してきました。
現在では,急速な都市化のなかで,住宅地との共存をはかる農業,先端技術産業の発達とともにさまがわりする工業,大型小売店の進出がめざましい商業など,相模原市の産業は,大きく移り変わっています。私たちの生活を支える産業が,どのように行われているのか,調べてみましょう
1 相模原の産業の変化
農業が中心だった相模原地域
市制施行のころの相模原と今の相模原地域とを,地図や写真で比べてみると,私たちはその変化の大きさに驚かされます。ここでは土地利用の変化から相模原地域の産業の移り変わりを調べてみましょう。
昭和22年
[昭和29年度版]国土地理院発行2万5千分の1地形図「上溝」
平成19年
[平成19年度版]国土地理院発行2万5千分の1地形図「上溝」
市制施行前の相模原では,人々の生活を支える主な産業は農業でした。といっても,水田は中段の小河川や下段などにわずかにみられるだけで,水の得にくい台地では桑畑が広がり,農家の貴重な現金収入の手段として,養蚕(ようさん)[資料1][資料2]が広く行われていました。
昭和の初めの不況のなかで,養蚕中心の経営は,畑作や豚などの家畜を飼う多角的経営に変わっていきました。
さらに,1948(昭和23)年に始まった相模原開発畑地かんがい事業によって,灌漑(かんがい)用水が作られるようになると,麦類や陸稲(りくとう(おかぼ)) などの栽培が増えていきました。
神奈川の養蚕,終わる〈2010(平成22)年12 月)〉
日本の近代化を支えた養蚕と生糸の輸出。相模原はかつて県内でも有数の,養蚕の盛んな地域として知られていました。桑都八王子と生糸の輸出拠点であった横浜港をつなぐのが,いわゆる「絹の道」(神奈川往還)です。市域東部の主要な交通路である国道16号,町田街道,そしてJR横浜線は,繭や生糸の輸送効率を上げるために整備されてきた側面があります。
まぶしの上をはいまわる熟蚕
その養蚕も近年は急激に生産量が減り,養蚕農家は数えるほどになっていました。そして2010(平成22)年秋,とうとう相模原から,いえ,神奈川県から養蚕の灯が消えることになったのです。
近代以降の養蚕は,農家が卵(養蚕の世界ではタネと呼びます)から育てるわけではありません。優良な品種を安定して供給するため,孵化後しばらくは一括して営農センターなどが人工飼料を使って飼育し,2回脱皮をして3齢幼虫になったところで各農家へ配布するのです。そのため,1軒だけで養蚕を続けることはできません。このように,養蚕業は設備や桑園の管理など大変な仕事が多くあります。また,会社や工場に務める人が多くなり,後継者がいないことも減少を加速させました。さらに,日本国内の絹の需要も減り,安い外国産の製品との競争も強いられるようになりました。そういった様々な厳しい状況があり,平成12年時点で,相模原市内の養蚕農家の数は4軒にまで減ってしまいました。(県内の養蚕農家は12軒。うち4軒が相模原市内)
そしてついに2010(平成22)年は,相模原(神奈川県全体でも)の養蚕が終了した年として歴史に刻まれました。
林業がさかんだった津久井地域
津久井地域は,古くから林業がさかんでした。その理由は,相模川の水運を生かした流通機能と,一大消費地である江戸・東京に近接している立地条件が考えられます。
江戸時代には,幕府は津久井地域の重要性に着目し,津久井地域に全国で唯一(ゆいいつ)の行政呼称である「県」を使い,直轄林「御林(おはやし)」の設定と整備に努めました。このようなことから,早くから森林造成や保育施策の取り組みがなされ,県内有数の人工林を形成してきました。
しかし,近年は,安価な外国産材の輸入による生産環境の悪化や,周辺の都市化の影響を受けた労働力の流出,担(にな)い手の高齢化などにより林業経営や木材生産は大変困難になってきています。
一方で,豊かな山林は,環境の保全,水源かん養,災害の防止といった公益的機能が再評価されつつあります。特に,県民の水源を守る貴重な役割を守るため,県による「水源の森林づくり事業」が平成9 年度から展開され,積極的に森林再生に取り組んでいます。
相模原市においても,平成22 年度に「さがみはら森林ビジョン」を策定し,50年後の「いきいきとした森林」をめざして,森林整備や津久井産材の利用拡大などの様々な施策を通じて,豊かな森林の保全と再生に取り組んでいます。
相模原市の森林
森林は,その所有している形態から," 国有林"と" 民有林"に大きく分かれています。
" 民有林"には個人所有の私有林のほか,県・市町村・財産区などのいわゆる公有林も含まれます。また," 民有林"には地域森林計画対象民有林と対象外の民有林があります。
これとは別に,森林の公益的な機能に基づく分類に" 保安林"があります。保安林は,水源かん養・土砂流出防備などにはじまり,保健・風致といったものを含む17 種類の役割が設定されており,国有林・地域森林計画対象民有林に重複して指定されていることもあります。
相模原市の" 国有林"と" 民有林"を足し合わせた面積は,18,944ha で,総面積の57.6%を占め," 保安林"の指定面積は,13,359ha で総面積の40.6%となっています。
出典:神奈川地域森林計画による。
平成28年3月現在
※保安林については平成28年3月末現在
※端数処理のため,合計は一致していない。
津久井地域の炭焼き
山林が多くをしめる津久井地域では,かつては炭焼きが養蚕とともに重要な産業でした。江戸時代の炭に関する古文書も多数残され,明治初期の文書には,炭を相模川を利用して須賀浦(平塚市内)へ集荷して,江戸へ送ったことが記されています。
昭和初期には,県内でもっとも製炭のさかんな地域となりました。大沼など相模原地域で生産された炭は"黒炭"ですが,津久井地域では"黒炭"とは製法の異なる"白炭"も生産されました。
しかし,1955(昭和30)年ごろから,炭の代わりに電気やガスが使用されるようになったため,現在では炭焼きはほとんど行われていません。
大正時代の炭の出荷風景(緑区青根)『津久井郡文化財 養蚕と炭焼 -産業編-』から
白炭と黒炭
"白炭"は少量の炭材を石づくりの窯(かま)に焼き上げます。窯の中で真っ赤に焼けた炭木を金属製のカギでかき出し,灰を混ぜた土をかけて消火します。急速に冷ますため,表面が白く焼き上がるので"白炭"と呼ばれます。たたくとカンカンと金属製の音がし,着火温度は高いが火持ちがよいので,主に室内の暖房や養蚕の保温のために使用されました。
白炭
"黒炭"は明治期から大正期にかけて,それまでの"鍛冶炭(かんずみ)"(津久井地域ではこう呼ばれていました)に改良に改良を重ねたものです。大量の炭材を土でつくった窯で時間をかけて焼き,自然に冷めるのを待って窯の中から取り出します。火持ちは"白炭"ほどよくはありませんが,着火温度が低いので火つきがよく,通気によって火力の強弱を調整することが可能でした。
黒炭
台地の用水路(相模原開発畑地かんがい事業)
できた頃の畑地灌漑用水
畑地灌漑用水路の計画
水が不足した相模原台地では,日照りで作物が枯れてしまうことがたびたびありました。人々は江戸時代には新田の井戸掘りなど水を求めて苦労してきました。このような地元民の願いを取り入れた県では,1948(昭和23)年に横浜市水道用の水を利用した「相模原開発畑地かんがい事業」に着工しました。
この用水路は相模原から藤沢に至る高台の台地の畑地約2,700haを灌漑(かんがい)し,農作物(特に陸稲(りくとう))の増収をはかる目的で作られました。虹吹(にじふき)で分水した横浜市水道の水を東西の二幹線に分け,細かく伸びた水路で畑に給水しました。
昭和38年度には,大野・麻溝・新磯地区の工事が完了しましたが,まもなく市内の急速な都市化により,畑地は工業用地や住宅地へと転用されていき,同時に畑地灌漑用水路もその使命を終えました。
灌漑溝は現在では一部が市民のいこいのための遊歩道(緑道やさがみの仲よし小道)として利用されています。
畑地灌漑用水路の支線
相模原地域の工業化
1950 年代から相模原地域の産業の中心は,農業から工業へと移りはじめました。
市になった相模原地域は,豊かな都市づくりをするために,1955(昭和30)年工場誘致条例(こうじょうゆうちじょうれい)を定め,積極的な工場誘致にのり出しました。
それまでの相模原地域の工業は,1937(昭和12)年に陸軍関係の施設が東京から移転してきたのにともなって進出してきた小原光学(現:オハラ)や田辺工業,浅野重工業,日満工業などの軍事関連工場があるばかりでした。
終戦後も,旧陸軍の施設が米軍に接収され,基地内につくられた相模工業(現:コマツ,日立建機)とともに,陸軍造兵廠(りくぐんぞうへいしょう)横浜エンジニア・デポー(通称・YED)として,米軍兵器の生産や修理などを行ってきました。したがって,市民の生活に必要な品物の生産を行う工場がなく,市としては朝鮮戦争(1950 〜1953 年)後の不景気も手伝って,基地にたよることから抜け出すことが大きな課題でした。
操業当時のカルピス食品工業
工場誘致条例によって,最初に相模原地域に進出を決定したのはカルピス食品工業(現:アサヒ飲料)で,1956(昭和31)年に工場用地を取得しました。1959(昭和34)年には大山工業団地がつくられ,そこに日本金属工業,会田鉄工所(現:アイダエンジニアリング), 山村硝子(現:日本山村硝子),セントラル自動車(現:トヨタ自動車東日本)など大規模な工場が次々に建設されました。相模原地域の工業化は一層進み,それにともない,農地は急速に減っていきました。この頃の産業別就業者数の移り変わりを見てみると,第1次産業に替わって,第2次産業の割合が最も高くなっていることがわかります。1955(昭和30)年からの30 年間で,相模原地域は全国でも有数の工業都市に成長しました。
一方,津久井地域では工業用地が少なく,相模原地域と比べると工業化は進んでいません。
産業の情報化・サービス化
1960 年代後半,首都圏(しゅとけん)の拡大とともに,宅地を求めて移り住む人々が急増しました。その結果,現在では産業別就業者数の上でも,第3次産業の占める割合が高くなっています。
都市化の進んだ今日,人々は「働く場」としてよりは「生活する場」としての快適な都市を求めるようになってきました。そこで,消費者のニーズに応(こた)えられるようなショッピングやレジャー,教養・文化等のサービス産業が増えてきています。また,地価や人件費が高くなり,企業の合理化が進められた結果,工場が移転し,その跡地にショッピングセンターやマンションが建てられ,工業地域に様々な建物が混在するようになっています。
立地企業の内部(アイダエンジニアリング)
水に恵まれないため,水田農業のできなかった台地の人々の生活は,決して楽ではありませんでした。軍都による発展の期待も,敗戦によって失われ,戦後の基地産業もしだいに縮小して,これといった収入源のない市の財政は,苦しいものでした。これを解決する方策が,工場誘致であったわけです。
—工場誘致条例の内容—
事業投資額500万円以上で従業員50人以上の事業体(のち3,000万円以上100人以上)を市に誘致して,移ってきた企業には,固定資産税相当額を交付率に基づき,3年間交付しました。
1955(昭和30)年7月に制定され,1961(昭和36)年3月に廃止されました。
産業別就業者の割合とその移り変わり(国勢調査による)
新天地相模原での工場建設
日本電気初代事業所長 葛西 義範さんの話
工場建設当時の日本電気
電話交換機
電話機の需要が急増した1955(昭和30)年頃,会社では「電話交換機」の増産ができる工場用地を探(さが)していました。候補地であった府中市の土地がなかなかまとまらないため,先に広い相模原の土地にと決めました。当時相模原市は,工場誘致に非常に熱心で,市が中心になって地主の説得に当たってくれました。住民も非常に協力的で,逆に工場建設を歓迎してくれるほどでした。
話はトントン拍子に進みましたが,広い土地とはいえ,現地は地平線まで見えるほどのぼうぼうたる枯野原(かれのはら)で「鳥も通わぬ相模原」などといわれる声も聞かれるありさまでした。
しかし,会社では,この土地にあらゆる知能を結集し,総力をあげて広大な土地にふさわしい工場を建設しようと決意しました。「工場完成,即操業(そくそうぎょう)」という厳(きび)しい条件のもとに,新天地開拓の熱意に燃え,従業員にも地域の人にも愛され,なお,将来の変化に対応できる適応性のある,高効率の理想的工場の建設にあたったわけです。
現在の日本電気(平成21年)
1980(昭和55)年談
2 都市型農業の確立をめざして
市内の農業のようす
都市化の進んだ相模原でも,市内のあちこちに農地がみられます。相模原では,どのような作物がどれくらい作られているのでしょうか。
ここでは相模原の農業のようすと課題を調べてみましょう。
大沢地区に広がる畑作地帯
畑地は市内の農地の大部分を占めており,だいこんやいも類,はくさいなどの生産がさかんです。複合経営や小規模農家が多いため,施設を使うより露地栽培が多いのが特徴です。
当麻地区の梨園
果樹は梨,ぶどう,栗,柿,ブルーベリー,リンゴなどが栽培されています。
庭先販売や観光もぎ取り,宅配などの形で販売が行われています。
近年では,市内全域において,ブルーベリーの生産が活発になっています。
上溝地区の酪農(らくのう)
畜産は相模原の代表的な農業です。
特にタマゴの生産量は県内でも上位に入ります。養豚(ようとん)は上溝・田名・中沢地区で,乳牛飼育は,新磯・麻溝・上溝・大沢・串川地区で,養鶏(ようけい)は麻溝・田名・大沢地区で主に営まれています。
新磯地区にみられる水田地帯
水稲は相模川にそった新磯・当麻・田名・大島・葉山島地区で栽培されています。かつては陸稲が中心でしたが,今は水稲中心にかわってきました。
しかし,つくられる米は,ほとんどが自家消費されます。
相模原市には,総面積の約2.9%にあたる約941ha の農地(経営耕地)があります。そのなかでも「相模原台地」という地形により,畑地が比較的多くありましたが,都市化のなかで急速に失われていきました。
農地が多くみられる地域
一方,農地が比較的まとまって広がりを見せているのは,相模川沿いや津久井地域であり,そのほとんどが農業振興地域に指定されています。さらに,一部農地では,農地の大区画化や農道整備等の基盤整備を行って,生産性を高めており,農業の振興に努めています。
しかし,急速に都市化が進む地域のなかでも,露地野菜の栽培などにより,農地を有効に活用し,市民等に新鮮な野菜を供給しています。
それでは,どんな農畜産物の生産が多いのでしょうか。かつて,相模原地域で最も生産額が多かったのは畜産でした。東京や横浜の大消費地に近い相模原では,昭和30年代後半から酪農や養鶏が盛んになりました。施設の近代化・企業化による規模の拡大,繁殖から肥育(ひいく)までの一貫生産などの工夫で1980(昭和55)年頃まで生産は伸びてきました。
耕地面積とその利用の変化「相模原市産業の概要」(平成23 年度版)より
しかし,今日では,畜産が農業生産額に占める割合は多いものの,畜産農家は急速に減ってきています。それは,畜産物の価格の値下がりが続き経営が難しくなり,小規模の農家はやめてしまうことが多いからです。
園芸はほぼ横ばいになっています。中心は野菜作りで,土質が火山灰土のため,イモ類やだいこんなどの根菜(こんさい)類の栽培がさかんです。なかでも,ヤマトイモは相模原の特産物となっており,公募により「さがみ長寿いも」と愛称がつけられ広く親しまれています。
農業生産額の割合(平成12年度までは相模原地域のみ)
園芸作物生産量の割合
ヤマトイモ
「相模原市産業の概要」(平成20年度版)より
農業の課題
次に相模原の農業のかかえている課題について考えてみましょう。
昭和40年代から,わが国では産業の工業化とともに大都市周辺で都市化が進み,農地の減少と離農(りのう)があいつぎました。本市でも,1975(昭和50)年とくらべると,農家戸数は6,157戸から2,456戸に減少しました。
このうち,特に第一種兼業農家の減少が著しく,775戸あったものが34戸と約22分の1になっています。
また,専業農家戸数も約2分の1になっています。経営耕地面積は,1975(昭和50)年に2,926ha であったものが,2010(平成22)年には941haと約3割に減少しました。
年齢別農業従事者 「2010 年世界林業センサス」「1975 年農業センサス」より
それはなぜでしょうか。一つの原因は,農業従事者の高齢化と担(にな)い手不足の問題です。上のグラフの通り,35年間で若年層が減って,高齢者の占める割合が多くなっており,こうした傾向はしばらく続いていくと考えられます。
農業を主としていた第一種兼業農家でも他からの現金収入にたよらざるをえなくなり,多くが農業を副業とする第二種兼業農家に移行しています。
さらに,農地に対する税金のしくみや,相続などとの関係で,農業を継続することが困難となっています。
兼業農家と専業農家の移り変わり
農地規模別農家戸数の変化「相模原市産業の概要」(平成20年度版)より,2015(平成27)年は「2015 年農林業センサス」より引用
都市型農業への転換
課題の多い相模原の農業ですが,それらを解消するため,農家や農業団体によっていろいろな取り組みが行われています。
まず,担い手不足の問題については,農業以外の人が,農家の手伝いができるように農業の技術研修を行う「援農(えんのう)システム」という制度が作り出され,実際に取り入れる農家も徐々に増えてきました。
また,農家の経営規模を拡大するための,農地の貸し借りができる制度もあり,グラフの通り農家一戸あたりの経営する耕作面積が年々増えていることがわかります。
また,市内の農産物の一部に「さがみはらのめぐみ」という愛称をつけ,新鮮で安全な野菜の生産・供給に取り組んでいます。
それ以外にも,地元でとれた野菜を直接市民に供給する市民朝市や「ベジたべーな」「あぐりんず つくい」の大型農産物直売所の開設,遊休化した農地を市民農園として市民に貸し出す制度など,市民が農業と直接ふれあい,お互いに理解を深めるための取り組みも積極的に行われています。
農家一戸あたりの経営耕地面積の移り変わり(2010年度 農林業センサス)より
販売農家:商品生産を目的にしている農家で経営耕地面積30a以上,また年間の農産物販売額50万円以上
花丼(かき)農家を訪ねて 緑区川尻 八木雄一郎さんの話
・どんな花を出荷しているのですか?
シクラメン,カーネーション,ベコニア,センパフローレンス,インパチェンス,プリムラなどです。
・この仕事を始められたのはなぜですか?
家が農家であったのと,海外研修に行き,農業をやってみようという思いが強くなり,花栽培を始めました。
・この仕事をして良かったことはなんですか?
自分の頑張りが結果につながることです。
苗を運ぶ八木さん
ハウスの中で育つ花
・どのような苦労がありますか?
花も生き物なので,仕事の休みがなかなか取れないことです。シクラメン栽培は周期が長く,約1年かけて育てるので途中,病気や害虫など,常に気をつけなければいけません。
しかし,育てる期間が長い分,きれいな花が咲いて出荷するときはうれしいです。
(平成20年談)
大規模な畑地 -大沢南部地区-
全体で67.6ha の広さの大沢南部地区は,かつては畑の区画が狭く農道も狭い畑でした。しかし,昭和30 年代から農業の機械化が進み,徐々にトラクターなどの機械も導入されてくると,区画が狭い畑では農作業に不都合も出てきました。昭和40 年代頃から徐々に農地の地権者からひとつの圃場を大きくしたり農道を広くしたいと意見が出始めました。そこで,1975(昭和50)年頃から,農業機械を使うことのできる整然とした農地や広い農道にするための話し合いが始まりました。
この地区は地権者が多く,考え方もそれぞれ違うために,話し合いに約10 年の年月がかかりましたが,1986(昭和61)年に事業が始まり,1993 年(平成5)年に事業が完了しました。
その結果,畑は間口20m,奥行き50m に整備され,道路幅も広くなり,生産者にとって利用価値の高い農地となりました。
現在では,利用しない農地を,規模拡大を図る生産者に貸し出す等農地の流動化が行われており,耕作放棄地や遊休農地は減少し,良好な営農環境が保たれています。そして,畑作地帯としては市内でもっとも広い地区となり,多くの農産物がこの場所から市民に供給されています。
きれいに整備された畑地
3 さらなる発展をめざす工業
市内の工業のようす
全国でも有数の内陸工業都市である私たちの相模原市では,2014(平成26)年の製造品出荷額等において,全国の市区町村中43位という位置にあります。
では,どのような事業が行われているのかなど,市内の工業の様子を見てみましょう。
業種別事業所数割合の推移 「工業統計調査」より(注)従業者数4人以上の事業所のみ。
業種別製造品出荷額等割合の推移 「工業統計調査」より(注)従業者数4人以上の事業所のみ。
事業所数が減少しています。製造品出荷額等は2010(平成22)年よりほぼ横ばいです。
次に業種別の様子を見てみましょう。事業所数では,一般機械,金属製品の占める割合が高くなっています。製造品出荷額等については,一般機械,金属製品,輸送機の割合が高くなっています。
企業を規模別に見ると,三菱重工業や日本電気などはよく知っていると思いますが,これらは従業員1,000人以上の大規模な企業です。従業員300人以上の大企業は,従業員4人以上の事業所数に占める割合が2.2%になります。現在,事業所数では,従業員4人以上300人未満の中小企業が全体の97.8%を占めています。
したがって,これらの中小企業の発展が,相模原市の工業を考える上でとても重要です。
また,首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の開通により,物流を中心とした企業が進出し,さらなる発展が見込まれています。
中小工場の内部(東邦電子株式会社)
中小工場の内部(共立工業株式会社)
従業員1,000 人以上の大規模な工場(三菱重工業)
主な工場と工業団地
調べてみよう 「市内の大きな工場」
〇 次の事業所(工場)は,相模原市内にある従業員300人以上の事業所の一部です。
主に生産しているものは何でしょうか。右の品目と線で結んでみましょう。
ア アイダエンジニアリング㈱ ・ ・a 通信ケーブル,免震装置等
イ ㈱オハラ ・ ・b 磁気製品,付せん紙,粘着テープ等
ウ KYB㈱相模工場 ・ ・c プレス機械
エ 昭和電線ケーブルシステム㈱相模原事業所 ・ ・d 光学ガラス,レンズ,プリズム
オ キャタピラージャパン㈱相模事業所 ・ ・e 特殊車両
カ ㈱東京衡機試験機 ・ ・f 電気自動車用電極,人工衛星等
キ スリーエムジャパン㈱相模原事業所 ・ ・g 食缶,容器等
ク 大和製罐㈱東京工場 ・ ・h 光学ガラス,特殊ガラス
ケ 東プレ㈱相模原事業所 ・ ・i 光ファイバー,ファインガラス等
コ ㈱ニコン相模原製作所 ・ ・j ガラス製飲料用容器( ガラス瓶)
サ ㈱ニフコ相模原工場 ・ ・ k 油圧機器
シ 日本板硝子㈱相模原事業所 ・ ・l 試験・計測機器( 耐圧試験機)
ス 日本電気㈱相模原事業場 ・ ・m 自動車用プレス部品
セ 日本山村硝子㈱東京工場 ・ ・n プラスチック成形加工品(ファスナー等)
ソ 三菱重工業㈱相模原製作所 ・ ・o ブルドーザー等の部品
○ 相模原市に工業が発達した理由をまとめてみましょう。
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(答)
アc・イh・ウk・エa・オo・カl・キb・クg・ケm・コd・サn・シi・スf・セj・ソe
中小企業と工業団地
中小企業の中には,自分の工場だけで完成品を製造する工場と,大企業の製品の部品を製造したり,加工したりする下請(したう)けの工場とがあります。中小企業は,大企業に比べると経営規模は小さいのですが,中小企業が集団化することにより,企業が協力し合い共同で多くの仕事を受注(じゅちゅう)したり,原材料を大量に発注(はっちゅう)してコストの削減等を図っています。さらには,互いに技術力をいかした新製品の開発などを行うことで,他企業に対して競争力をもつことができるようになると考えられます。
そこで,工場の集団化・共同化などの工夫が行われてきました。市内には,中小企業などがたくさん集まった工業団地として「相模原機械金属工業団地」など10か所がつくられています。工業化が始まった頃の相模原市の工業団地は,市や国の関連機関が土地を造成(ぞうせい)したり,進出企業のまわりにその関連工場が集まってできました。その後地価が高くなると,広い土地が必要な大企業に代わり,中小企業の進出が多くなりました。そのため,住宅と工場が隣接(りんせつ)し,騒音や振動等の公害がでてきました。そこで,このような公害問題を解消することと,集団化・共同化をすすめるために,中小企業工業団地がつくられました。
中小企業
工業では,資本金の額又は,出資の総額が3億円以下,又は常時使用する従業員数300人以下の企業をさします。
最近では,オートメーション,コンピュータなどの導入で,各企業が省力化を図っているので,従業員数だけで企業の規模を決めることはできません。
中小企業発展のかぎ 工業団地協同組合
相模原機械金属工業団地協同組合は1968(昭和43)年8月,市内に散在(さんざい)する中小企業製造業の共同化と協業化によって理想的な工業団地を作るという高い目標を掲げ,製造業を営む工場25社が国や県の集団化助成(じょせい)を受けて発足しました。その後,神奈川県,相模原市,相模原商工会議所,中小企業事業団などの診断指導を受け,神奈川県で1番目の中小企業高度化資金を借り入れて面積10万㎡余りの工業団地を造成。1971(昭和46)年10月に完成しました。
完成後,多くの不況,困難を乗り切って組合員の相互扶助の精神と結束(けっそく)力を失うことなく,絶え間ない努力で今日を迎えられますのも集団化によるメリットが大きかったといえます。
組合としては,これまで共同受電や共同施設,また,福利厚生の充実に努めてきました。1988(昭和63)年には郵便局も団地内に開局され,周辺住民にも利用されています。
組合の大きな役割は,組合という組織の力を活用し,行政とのかかわり,また,新しい情報を収集し,組合員に伝え役立ててもらうようにしていくことです。 2008(平成20)年
相模原機械金属工業団地協同組合
相模原機械金属工業団地全景
相模原機械金属工業団地の配置図
工業団地の特色
(1) 地域に分散している工場を集団化して公害問題を解決し,有機的な連絡,適正な工場配置を行い,生産設備の近代化と企業合理化の促進,体質の改善を図る。
(2) 共同施設を中心とする共同受注,生産,共同受電,共同購買及び金融事業等の共同事業を推進する。
(3) 作業環境,労働条件の改善をはかり,福利厚生施設の充実により雇用の安定,確保を図る。
近年の中小企業工業団地のうごき
現在,市内には10カ所の工業団地があります。1959(昭和34)年に大山工業団地がつくられてからは,平成になって「テクノパイル田名工業団地(平成8年度完成)」「協同組合Sia(シア)神奈川(平成21年度完成)」がつくられました。
一番新しい工業団地である「協同組合Sia(シア)神奈川」は,廃業したぶどう園の敷地に16社の企業が住工混在や手狭な工場等の操業環境を解消し,地域環境との共生のもと新たな事業展開や生産能力の拡大を図るとともに,団地内協力体制を構築し,ビジネス機会の創造と事業の継続的な発展をめざしています。
協同組合Sia(シア)神奈川
先端技術産業の発展
エレクトロニクスの発達は,生産の省力化(しょうりょくか)や生産性の向上に大きな影響を与えました。その結果,今日ではいろいろなところでコンピュータが使われ,機械の自動制御(せいぎょ)や産業用ロボットによる加工組立,さらには工場全体の自動化をもたらしています。
それでは,先端技術関連の工場や研究所がどうして相模原市に進出してきているのか,考えてみましょう。
業態別事業所数の割合 「工業統計調査」より (注)対象は従業員数4 人以上の事業所
業態の主な内容
第1に,相模原市は機械などの加工組立型の工業がさかんで,市内の工場の約62%を占めており,新技術を受け入れるために必要な技術力がすでに蓄積(ちくせき)されているからです。
第2に,情報の集積地(しゅうせきち)であり大きな市場でもある首都東京や京浜工業地帯に近いことがあげられます。
第3には,国や民間の研究機関や大学が立地し,知識や技術の集積が進んできていることがあげられます。
このような好条件を生かして,市では先端技術関連の工場を集めた新しい工業団地「テクノパイル田名」を建設し,現在では多くの工場が操業(そうぎょう)しています。産業情報の集積や産業活動の拠点(きょてん)になるように,1993(平成5)年には相模原市立産業会館もつくられました。
新たな産業の創出
近年では,インターネットに代表されるような情報技術(IT)のめざましい発展や, 世界規模で広がる経済活動, さらにはライフスタイルの多様化などにより, 地域をめぐる経済環境は大きな転換期を迎えました。
こうした背景を受け,相模原市では,2000(平成12) 年に産業創出(そうしゅつ)の場の提供等を目的とした「さがみはら産業創造センター(SIC−1)」を建設しました。この建物は,創業間もない企業などを支援するための施設で, 小規模なオフィスや実験・研究を行う研究室など46部屋があり, 現在,施設内で様々な研究開発が行われています。
また,2002(平成14)年に, 創業後のさらなる成長や大学などとの共同研究の事業化をめざす企業や研究者のために, SIC−1の隣接地に「第2さがみはら産業創造センター(SIC−2)」を建設しました。
さらに,2011(平成23)年には,操業スペースの提供や,共同研究・開発のサポートを通して,創業期から成長期に移行する「独創的な技術を持ったものづくり企業」を支援するため,上溝にSIC3i − Lab.(SIC−3アイラボ) を開設しました。
個人や企業の活発な活動が促進され, 相模原市の地に新たな産業の創出が期待されています。
企業の誘致と産業の集積
バブル経済崩壊以降,相模原市の工業は,事業所数や製造品出荷額等の減少や, 工場と住宅が隣接することによる騒音・振動の問題などの課題を抱えていることから, 2005(平成17)年にさがみはら産業集積促進(しゅうせきそくしん)条例(STEP50)を定め, その課題の解決に向け取り組んでいます。
さがみはら産業集積促進条例では,工場と住宅の適切な立地や市外から企業を誘致(ゆうち)することなどにより,相模原市の将来を担う産業集積の形成を促進し,さらなる工業の発展をめざしています。
さがみはら産業集積促進条例(STEP50)の内容
具体的な方策の一つとして,産業集積促進条例を制定しました。これにより,企業が工場を立地する際に,土地・建物などの固定資産税の取得に対し,奨励金を交付したり,固定資産税・都市計画税を軽減しています。
また,土地を工業用地として売却する場合や工業系の地区計画を定める場合にも奨励金を交付します。
4 市民の消費にこたえる商業都市をめざして
発展する商業
市民の消費生活をささえている小売店が市内にどのくらいあるのか,そして,年間の販売額がどのくらいあるのか,みなさんは知っていますか。
小売店数や年間販売額は,全国一斉に行われている商業統計調査から調べることができます。それによると,小売店数,年間販売額ともに県下で3位で,相模原市は商業規模が大きいことがわかります。
相模原市が誕生した1954(昭和29)年から現在までの小売店数や年間販売額の増加のようすを見ると,相模原市の商業は,人口の急激な増加とともに大きく成長してきたことがわかります。
このような相模原市の商業を,もう少しくわしく調べて,その特色や課題を考えてみましょう。
県内都市別小売店数上位5市
県内都市別年間販売額上位5市
相模原市の年間販売額の県下での順位
小売店数と人口の増加(商業統計調査、市統計書より作成)
購買力の市外流出
それでは,相模原市の商業の現状を,周辺の都市と比べてみましょう。
相模原市の商業は,小売店の年間販売額で見ると県下3位ですが,1店あたりの販売額や市民1人あたりの販売額などは,周辺の都市と比べて低いことがわかります。これは,相模原市民のうち市外で買い物をする人が多いことを物語っています。
町田・厚木の各市はまわりの市町村の購買力(こうばいりょく)を吸収して競争力が強いのに対し,相模原市の商業は競争力が弱く,市民の購買力が市外に流れ出ていることが,以前から大きな課題になっていました。
それでは,その理由を考えてみましょう。
近隣都市との比較 平成26年商業統計より
広範囲に分布している商業地
市内にある商店会の分布の特色を地図から読みとってみましょう。
市内の商店会の分布「相模原市産業の概要」(平成 28 年度版)より
みなさんは,相模大野駅や相模原駅,橋本駅周辺に小売店が多く集まり,にぎやかな商店街になっていることはよく知っていますね。でもよくみると,商業の盛んな地域は市内に広範囲に分布していることに気付きませんか。このことは相模原市の商店街が成立してきた過程をみることでわかります。
上溝や田名の商店街は,1941(昭和16)年に相模原市が町村合併する以前のそれぞれの町・村の中心地に成立した商店街です。西門や淵野辺・相模台の商店街は旧陸軍施設やその後の米軍基地の設置をきっかけにして成立しました。
また,小田急線や横浜線の各駅周辺や市域の中心部には,住宅団地がつくられるなど人口の増加とともに商店街が成長しました。
つまり,相模原市の商業は,町村合併・基地の設置という歴史的な背景,広い市域と交通体系,市域の広い範囲にわたってつくられた多くの団地や宅地の造成などから,自然発生的に商業地が立地し,市内の商業の核になる中心商業地の形成が遅れてしまったのです。また,相模原市の近隣には,町田駅や八王子駅周辺のように,早くから,デパートをはじめ,多くの大型店や各種の専門店を中心とした商業地が形成されていたことも,その理由に加えることができます。
みなさんの家でも,食料品や日用品は近くの市内のスーパーや商店で買い物をします。
しかし,洋服や贈答品(ぞうとうひん)などは町田をはじめ市外で買い物をすることが多いと思います。このことからも,相模原市の商業のかかえる課題がわかるのではないでしょうか。
1966(昭和41)年頃の主な商業地 (「相模原市の商業,昭和41年」「県住宅団地立地調査結果報告書」「相模原の都市化」より作成)
調べてみよう「商店街」
〇 市内にある商店街がどのようにして生まれたか調べてみましょう。
上溝の市(いち)
上溝はかつて市内の商業の中心的な所でした。市立博物舘を訪ね,商店街のもとになった上溝の市のようすについて話を聞きました。
Q1 上溝の市(いち)はいつごろ開かれたのですか。
A 横浜の開港と生糸貿易(きいと)の開始にともない,生糸・繭(まゆ)の取引市場として明治3年に生まれ昭和20年前後まで続きました。上溝に開かれた市揚だったので「溝市(みぞいち)」と呼ばれました。
Q2 いつもお店は開いていたのですか。
A 3と7のつく日に商人が集まり取引が行われました。
露店(ろてん)商人と家を借りる商人がいました。また,居店(いみせ)といって毎日開いている店も149店(大正12年)あったことが確認されています。
Q3 市はどんなようすでしたか。
A 溝市に行くのは農家の人々の楽しみで,相模原を中心に愛甲郡はどからも来ました。生糸や繭を背負って売りに来て,そのお金で衣類や農貝を買って帰りました。
1919(大正8)年10月に市場開設50周年記念式が行われた時の記念碑
市立博物館には溝市のようすがわかる資料が多く展示されています。
上溝の市が立った位置 国土地理院発行2万5千分の1地形図「上溝」
西門商店街
相模総合補給廠(ほきゅうしょう)の西に位置する西門商店街はいつごろから成立したのでしょうか。
調べてみよう「古淵」
次の地図は市内の大規模小売店舗(店舗面積1,000㎡超)の所在地をあらわしたものです。ここ数年,とくに発展のめざましい古淵の商業について調べてみましょう。
大規模小売店舗の分布(1,000 ㎡超)「相模原市産業の概要」(平成28 年度版)より
Q1 古淵にはどのような大規模小売店舗がありますか。
Q2 いつごろから大きなお店ができたのでしょうか。
Q3 それまではどのような土地だったでしょうか。
Q4 古淵駅ができたのはいつでしょうか。
Q5 古淵駅周辺が発展してきた理由をまとめてみましょう。
1979(昭和54)年
2007(平成19)年 古淵周辺の変化 国土地理院発行2 万5 千分の1 地形図「原町田」
Q6 自分たちの町の商店街はどのようにして発展してきたか調べてみよう。
大型小売店の進出
市域には,人口の急激な増加にともなって,スーパーマーケットなど大型小売店を核に,各種の専門店が入った大規模小売店舗(大型店)が出店しました。
ここでは,このような小売店がいつ頃から増え,どんな地域に出店し,相模原市の商業にどのような影響を与えているか,また,地元の商店とのかかわりなどについて考えてみましょう。
相模原市内に最も早く出店した大型店は,相模大野駅に開店したオダキューOX相模大野店で,1963(昭和38)年のことです。その後,年ごとに増え続けて,2015(平成27)年8月1日現在で,86店舗(店舗面積1,000㎡超)になりました。(大規模小売店舗立地法の届出の有無等により実態とは異なります)さらに,現在も大型店の出店が続いています。
こうして,市内の小売業に占める大型店の比重は年ごとに高まり,消費者の買い物のしかたの変化ともあわせ,これまでの商店街や地元の商店に大きな影響を与えるようになりました。
大型店は,広い店舗や駐車場を確保するために,幹線道路沿いに出店する例が多くみられます。また,多様化している消費者のニーズ(要望)をとらえ,積極的な経営を進めています。
大規模小売店舗数と売場面積に占める割合 相模原市産業の概要(平成21年度版)より
大規模小売店舗立地法と大型店
みなさんの住んでいるまわりに大規模小売店舗( 大型店)ができると,生活や環境にどのような影響があるでしょうか。
大型店は,生活の場から身近なところにあるため,多くの人が日常的に利用する施設であり,多数の来客,大量の商品の流通などを伴うため,車の渋滞や騒音・ゴミの発生など,周辺の生活環境に大きな影響を及ぼす可能性があります。
このような大型店の出店等に伴い発生する生活環境の問題に対応できる制度として,2000(平成12)年6月に大規模小売店舗立地法( 大店立地法)が施行されました。
大店立地法は,大型店の出店について,出店に伴う生活環境への影響を中心に一定の配慮を求めていく手続きを定めた法律で,大型店はその施設の配置及び運営方法について,交通,騒音,廃棄(はいき)物等の生活環境に関する指針(ししん)(ガイドライン)に基づいた具体的な対応が求められます。
大店立地法では,大型店は小売業を行うための店舗の面積が1,000 ㎡を超えるものと規定されており,営業のかたちにより次のようなものがあります。
大規模小売店舗の形態
百貨店
衣食住にわたる各種商品を販売し,主に対面販売方式を取り入れている店
スーパーマーケット
主に食料品,衣料品を販売し,セルフサービス方式を取り入れている店
専門店
衣料品,家具,家庭用電気製品など主に単品を扱う店
商店会の取り組み
相模原市の商店会は,大型店の進出による来客数や売り上げの伸び悩みといった課題に対抗するために大売出しやイベントの実施,街路灯の整備,共同駐車場の整備を行うなど,明るく活気のある商店街づくりに努めてきました。
しかし,近年では店主の高齢化や後継者不足,商店会へ加入する商店の減少などにより,商店会の力が弱まり,こうした活動に深刻な影響を及ぼしています。
そこで,市は商業者と話し合いをして「相模原市商店街の活性化に関する条例」を作りました。これは,商店に商店会への加入を積極的にしてもらい,組織を強化するとともに,地域と連携して地域の課題解決に取り組み,地域に愛される商店街づくりを進めるものです。
相模原市商店街の活性化に関する条例
市では,地域のにぎわいづくりや地域社会の発展のために重要な役割を果たしている商店街の活性化をめざして「相模原市商店街の活性化に関する条例」を制定し,平成19年4月から施行しました。
〇目的
商店街が地域のにぎわいづくり及び地域社会の発展のために果たす役割の重要性から,商店街の活性化を図ることで,市民生活の向上に寄与(きよ)することを目的とします。
〇基本理念
市民,事業者,商店会,経済関係団体及び市は,商店街の果たす役割の重要性を認識し,協働(きょうどう)してその活性化に努めるものです。
〇責務
事業者,商店会,市の責務(せきむ)を規定しています。
・事業者の責務は,商店会への加入に努めるとともに,商店会が実施する事業や取り組みに積極的に参加し,応分(おうぶん)の負担により協力に努めるものです。
・商店会の責務は,事業者の商店会への加入促進(そくしん)や,商店会相互の連携に努めるものです。また,商店会は,市民の皆さんの意見を聞いて,商店街の活性化に関する事業や,安全・安心の取り組み,高齢者の支援,子育て世代への支援などの地域課題を解決するための取り組みを進め,地域に愛される商店街となるために努めるものです。
・市の責務は,市民等と協働して,商店街の活性化のために必要な施策(しさく)を推進するとともに,商店会が実施する事業や取り組みに対して,必要な支援に努めるものです。
橋本駅周辺のまちづくり
橋本は,JR横浜線,相模線,京王相模原線の鉄道3線が乗り入れる交通の利便性から,県北の拠点としての重要性が高まっており「ふれあいのターミナル・はしもと」をテーマに,相模原市の中心商業地のひとつとしてのまちづくりが進められています。
駅周辺には,大規模小売店舗や専門店街,高層マンションが整備されるとともに,公共駐車場,図書館等の公共施設が集約されるなど,集客力の向上と商圏の拡大を図る取り組みが進められています。
また,毎年8月には,相模原市の六大観光行事のひとつである七夕まつりが,商店街や地域の人たちが中心となって開催されるなど,街のにぎわい創出に向けた取り組みも積極的に進められています。
今後,リニア中央新幹線の駅の建設も予定されており,更なる発展が期待される地域です。
個性的な街づくり
相模原市の商業振興施策は,計画的な商業地の整備をめざした「相模原市商業振興ビジョン」(1983 年)とそれを受け継いだ「さがみはら産業振興ビジョン」(1996 年)を経て,現在は「新・相模原市総合計画」とその部門別計画である「さがみはら産業振興ビジョン2025」に基づき進められています。この総合計画では"中心市街地の魅力向上"と" 地域に根ざした商店街の活性化"が商業振興の2大テーマに掲げられ,地域特性を活かした商業地づくりが進められています。
中心商業地
デパートや大型小売店,専門店街とともに飲食・レジャーなど娯楽性があり,商圏(しょうけん)が広い商業地
地区中心商業地
食料品などを売る個人商店をはじめ大型店,専門店,飲食店が混在した商業地
近隣商業地
生鮮三品(野菜,肉,魚)や毎日の生活に欠かせない日用品を中心に売る個人商店が多い,商圏が狭い商業地
商業都市づくり
ところでみなさんは,相模大野駅・相模原駅・橋本駅周辺に見られるように,市内の商業地が,次々と個性的で魅力ある街並みに生まれ変わっていることに気付いていますか。
相模原市は,地元の商業者や住民と協力し,相模原市の商業の活性化をめざした商業地づくりを進めています。それは,中心商業地の開発,都市型デパートや専門店の誘致(ゆうち),駐車場・駐輪場の整備,歩道やモールの設置,文化・教養・レジャー施設の充実,緑豊かな街並みづくり,商業の担い手づくりをとおして,都市間競争にうち勝ち,消費者である市民にこたえられる,個性豊かな商業都市をつくりあげていくものです。
卸売業と物流
人口密度が高く,消費生活が多様化・高度化している相模原市では,小売業の整備とともに,商品を小売店に卸(おろ)す卸売業(おろしうりぎょう)や商品を効率よく運ぶ物流(ぶつりゅう)業の整備が望まれます。
相模原市の物流は,市内の幹線道路の混雑や倉庫などの物流施設が住宅地の中に混在(こんざい)していることなど,様々な問題点を抱えていますが「さがみ縦貫(かんじゅう)道路」のインターチェンジ開設により,渋滞緩和(かんわ)や物流の効率化が期待されています。
相模原市の卸売業 (「相模原市産業の概要」より作成)
第3章 都市のはたらきと市民生活
市民生活の充実が求められるようになった今,都市のはたらきが私たちの生活にあたえる影響は,とても大きくなりました。
消費者にとって,毎日の生活に必要なものやサービスが得られる街づくりが求められています。
ここでは,消費や交通・文化等の都市のもっているはたらきから,相模原市民の生活を考えてみましょう。
1 消費生活の場としての相模原
市民の買い物先
相模原市は,周辺の他都市に比べて商業の発達が遅れたことがわかりました。
消費者の買い物行動調査によれば,市内商業地の利用と市外商業地の利用とには,品目(ひんもく)により差があることがわかります。
食品などの最寄品(もよりひん)(毎日の生活に欠かせない購買頻度(ひんど)の高い身近な商品群)の買い物には,市内商業地の利用が8割前後にのぼるほか, 準買回品(じゅんかいまわりひん)(最寄品より購買頻度の少ない,薬品などの商品群)についても,市内の利用率が高くなっています。一方,買回品(かいまわりひん)(比較的高額で,好みに応じて店舗を選んだり,商品を比べたりしてから購入するもの)は比較的市外の利用率が高い,という結果が出ており,その多くは町田駅周辺であることがわかります。
しかし,近年,中心商業地である相模大野や橋本などの商業集積が進んだことなどから,相模大野・橋本駅周辺での買い物が増えてきています。
このほか,最近では,購入方法が多様化していて,テレビ・カタログ・インターネット等の通信販売で購入する人も増えてきています。
品目別購入商業地域(上位3地域、複数回答)「相模原市商業実態調査報告書」(平成24年度版)より
消費者のニーズ
なぜ人々は,町田に集まるのでしょうか。町田は,駅前に大型小売店舗(てんぽ)や有名店が多く,商品の選択性やファッション性に優れているため,市民が買物を楽しむ場として町田を選択していると考えられます。
相模原市でも品揃(しなぞろ)えが豊富な大型小売店舗の出店が続いたことで,市内で買い物をする人が増えましたが,近年,多摩境駅や南大沢駅,南町田駅周辺の商業集積が進んだことから,再び市外流出が増加しています。
消費者は,地域経済の景気後退で消費が低迷(ていめい)する中,生活防衛意識の高まりから,買い物をなるべく家から近いところで済まし,夜間営業やポイント付加(ふか)などのサービスのよいお店を選ぶようになりました。
消費者は,家の近くで消費行動の全てをまかなえられるよう,市内の商業地に商品が豊富に揃(そろ)うファッション性のある街はもちろん,買い物だけではなく,レジャーや教養・文化を満たすことのできる街づくりを望んでいます。
さらに,車・自転車社会の今日では,安全で快適な買い物をするために街路の整備や駐車場・駐輪場の設置等,利便(りべん)性が向上することを要望しています。
調べてみよう 「ロードサイドショップ」
幹線道路沿いに立地し,広い駐車場をもった比較的大型な店を「ロードサイドショップ」といいます。相模原市は国内でもロードサイドショップが発達した代表的な地域です。
ファミリーレストラン
ハンバーガーショップ
大型電気店
リサイクルショップ
大型紳士服店
Q1 これらの店の共通点を考えてみましょう。
Q2 これらの店の立地条件を考えてみましょう。
Q3 相模原市にはなぜ「ロードサイドショップ」が発達したのでしょうか。
(ヒント 相模原市の交通事情を考えてみましょう)
Q4 あなたの住んでいる街の幹線道路沿いには,どんな「ロードサイドショップ」があるか調べて,下の道路に書いてみましょう。また,いつごろ開店したのか調べてみましょう。
幹線道路:国道16号,国道129号,県道51号(行幸(ぎょうこう)道路),県道507号(村富(むらとみ)線),国道20号,国道412号,国道413号(津久井街道)(○で囲みましょう)
街の便利な店コンビニ
◆郊外(こうがい)型コンビニのモデル都市「相模原」
東京近郊の相模原市は,平坦な土地で,道幅が広く,見通しの良いところなので,郊外型コンビニのモデル都市として注目されました。相模原市は,日本で最初にコンビニがつくられた地域の一つで,今ではその数もたいへん多くなっています。
◇コンビニとは
「コンビニエンス・ストア」の略で「便利な店」という意味です。この店は,消費者が何を望んでいるかを考えてつくられました。「便利な店」のサービスとは,生活に身近で消費者の欲しい品物を,消費者の買い物時間に合わせて,あちこちの店に行かなくても買えるようにと,つくられた店です。
コンビニ商品
◇コンビニエンスとは何だろう
24時間活動の絶えることのない都市では,営業時間を朝早くから夜遅くまでにすることにより,通勤前や夜遅く帰宅する人たちへ「時間」をサービスしています。
しかし「コンビニエンス」の意味はどんどん変わっています。今では,時間の便利さだけではなく,味や鮮度(せんど)の良い商品,そして公共料金の振(ふ)り込(こ)み等,もの以外のサービス提供をするようになっています。
住宅街に進出したコンビニ
◇バーコードは何のため
商品についているバーコードは,金額を打ち込む手間(てま)を省(はぶ)くだけに利用されているのではありません。
POSレジスターでバーコードを読みとり,どの商品が,どんな時間に,どんなお客さんに(男女別・年代別にチェックされています。)売れているかをコンピュータで分析し,品揃(しなぞろ)えや商品開発に活(い)かされています。
レジとバーコード
コンビニの入り口風景
◇POSシステムとは
商品によってよく売れるものとそうでないものが出てきます。しかも売り場の広さは限られているので, バーコードを使ったPOS(ポス)システム(販売時点情報管理システム)によって,一括(いっかつ)管理しています。商品の売れ行きを見極めて,よく売れる商品をたくさん仕入れたり,入り口近くの目立つところに置くなど工夫をしています。
◇計画配送システム
POSシステムにより,商品の動きがすぐにわかり,品物の発注が簡単にできます。欠品を出すことなく,かつ在庫を適量におさえるためや,食料品の鮮度(せんど)を保つために,細かい発注に応じた計画配送システムが必要になります。
そのため,あらゆる商品を一括した共同配送システムで,商品の特性にあわせた回数の納品(のうひん)をしています。
配送トラック
◎様々なサービスの提供
コンビニエンスストアでは,様々な公共料金の振り込みや宅配便の受付,写真の現像・プリント等もできるようになっています。
最近では,ATM(現金自動預け払い機)による銀行預金の入出金ができる店が大部分を占めています。
2 市民生活と交通
交通手段の変化
相模原市民は,通勤や通学・買い物等の日常生活のなかで様々な交通手段を利用しています。
ここでは,市民がどんな交通手段を利用しているのか調べてみましょう。
図1 市民が利用する交通手段の割合
※二輪車とは,小型二輪・原付自転車と自転車を含めたもの
※パーソントリップ調査結果からみた居住地別の代表交通手段分担率の推移(相模原市平成20年パーソントリップ調査より)
◎パーソントリップ調査
広域的な交通課題,都市政策を検討していくためにどのような人が,どこから,どこへ,何の目的で,どの交通手段で動いたかについて,10年ごとにその交通の実態を把握するための調査
バスターミナル
相模原市は,神奈川県内でも自動車の利用率が高く,反対に鉄道の利用率が低い地域となっています。(図1)これは,鉄道が市域の外側にそうように通っているためです。
このため相模原市では,古くからバス路線が橋本駅や相模大野駅などの市域の中心市街地にむけて発達し重要な交通手段となっているだけでなく,自動車も,多くの市民が日常生活のなかで利用しています。
特に,合併前の旧津久井4町では,自動車の利用は減少することなく,約60%を占めており,旧相模原市の区域と比較すると,約2倍と自動車が主たる交通手段となっています。(図2)
図2 相模原市居住者における代表交通手段分担率の推移
平日と休日の違いをみてみると,休日は自動車の利用が大幅に多くなっており,多くの市民が買い物やレジャーに自動車を利用していることがうかがえます。(図3)
こうしたなか,近年では,自動車の利用をなるべく控えて鉄道やバスを利用することで,交通渋滞を減らそうという取り組み(交通需要マネジメント(略称TDM)やモビリティ・マネジメント(略称MM))が進められています。
図1からは,平成10年までは増加傾向にあった自動車の利用が,この10年間で減少に転じる一方で,鉄道の利用が増加し,これまで減少傾向にあったバスの利用も僅かに増加しているといったことも読みとることが出来ます。
図3 相模原市居住者の平日・休日の代表交通手段分担率(帰宅トリップを除く)
自動車利用の買い物
市内外を結ぶ鉄道
市内を走る鉄道としては,JR横浜線,JR相模線,JR中央本線,小田急小田原線,小田急江ノ島線及び京王相模原線が運行されており,通勤・通学を始めとする,市内外移動のための重要な路線となっています。2015(平成27)年度の鉄道利用者は,1998(平成10)年度当時と比較すると20%以上増え,便利で確実な交通手段として利用されています。鉄道を利用する人のうち,多くは市内・市外間を移動する人が占めており,特に東京及び横浜方面への移動に多く用いられています。また,各駅の一日平均乗降人数をみると,橋本駅が約22万人,相模大野駅が約13万人となっています。(図4)
橋本駅と相模大野駅は,東京方面への移動に便利なことや,複数の路線が乗り入れることから,駅周辺の地域だけではなく,広範囲な地域から利用されており,大きなターミナルになっていることがうかがえます。
図4 各駅の一日平均乗降人数(平成27年度) ※複数の路線が乗り入れる駅は各路線の合計
地域の生活を支えるバス交通等
市域には,バスが運行されており,橋本駅,相模原駅,淵野辺駅,相模大野駅などの駅や,三ヶ木(みかげ)を起点とした路線が縦横(じゅうおう)に走っています。市内を走るバス路線は,130系統あります。(平成28年4月1日現在)
公費負担により運行しているバス路線図
また,津久井地域を走るバス路線には,バス事業者が自ら運行する路線に加え,国・県・市などの補助により運行している路線が平成28年4月1日現在9路線11系統あり,地域における通学や通勤など住民の生活交通の確保(かくほ)が課題となっています。
※路線バスを補完する公共交通
交通不便地区における高齢者など,移動に制約のある方の生活交通を確保するため,地域,行政,交通事業者の協働(きょうどう)で運行するコミュニティバス,乗合タクシーがあります。
現在,コミュニティバスは2路線,乗合タクシーは4地区で運行されています。
コミュニティバス「せせらぎ号」
乗合タクシー「おしどり号」
相模原市の鉄道とバス
住居を求めて
工業都市として発展してきた相模原地域は,首都圏の拡大にともない,1960年代から急速に宅地化が進行しました。そこで,相模原地域の宅地化のようすを調べてみましょう。
相模原地域南部の住宅は,小田急線沿線を中心に首都圏の拡大によって建設が進んだものです。1956(昭和31)年小田急相模原駅付近に日本住宅公団「鶴ヶ丘団地」,1964(昭和39)年〜1972(昭和47)年に神奈川県住宅供給公社「相武台団地」をはじめ,4つの県営団地が相模原地域南部から北部にかけて建設されました。
市民の働き先を地区別にみると,相模原地域南部地区の市民は市外で働いている人が多く,逆に相模原地域北部地区の市民は市内で働いている人の比率が高くなっています。
相模原地域北部地区の住宅は,企業の社宅や民間アパートが多くみられることからわかるように,工業化した相模原地域で働く人たちの住宅として発展しました。
さらに,民間による宅地開発が活発になると,ミニ開発が多くなり,駅に近い所は地価が高いため,駅より少し離れた所から宅地化が進むような現象が見られるようになってきました。
そして現在では,地の利の良い駅周辺を中心に,高層化したマンションの建設が増加しています。
市民の働き先(市内と市外の割合)
人口増加率の変遷
ともに「平成17年国勢調査報告書」による
3 市民生活と文化
整備される文化環境
相模原市民は,日頃どんな文化施設を利用しているのか,また今後どのような文化施設を望んでいるのか,考えてみましょう。
人口急増都市のため文化施設の少なかった相模原市では,買い物先と同じように文化施設も市外に頼ることが多くなっていました。市民は,音楽を聴(き)いたり,映画や演劇を観(み)るためには,横浜や東京方面へ出かけなければなりませんでした。
そこで市民の要望にこたえ,1965(昭和40)年に「相模原市民会館」がオープンし,映画や音楽・演劇などが催(もよお)され,多くの市民に利用されてきました。
その後,市民生活が多様化し,いろいろな文化施設が要求されるようになってきました。そこで南市民ホールやあじさい会館など小ホールがつくられました。
さらに1990(平成2)年1月には,文化会館(大ホール・多目的ホール)・図書館・南メディカルセンターを兼(か)ね備(そな)えた「グリーンホール相模大野」がオープンし,文化施設の大きな拠点(きょてん)として様々な活動をしています。
また,2001(平成13)年9月には,橋本駅北口に「杜(もり)のホールはしもと」2012(平成24)年4月には城山地区に「もみじホール城山」がオープンし,市民が音楽,演劇等の芸術文化を鑑賞したり,自ら芸術文化活動を実践する場として利用されています。
文化ホールの利用状況
それでは,早くつくられた「市民会館」と新しい「文化会館」の現在の利用状況を調べてみましょう。
「市民会館」では,学校行事や講演会などの大会・式典の催しが多く「文化会館」では,クラシックや軽音楽の催しが半分をこえ,市民会館とは違った特徴を示しています。
市民会館ホールの利用状況(平成26年度)
市民会館大ホールの利用状況(平成26年度)
「市統計書」から作成
増えるスポーツ施設の利用
スポーツ施設の整備が進むにしたがって, 利用者数も増加しています。昭和63年度には130万人だった年間延べ利用者数は,平成25年度には280万人を超えるほどになりました。
スポーツの楽しみ方は, 実際に自身が体を動かす「する」スポーツだけでなく, 観戦を通じて感動や共感を分かち合う「観る」スポーツやアスリートを応援し, 支援する「支える」スポーツもあります。
近年では小山公園ニュースポーツ広場が作られ,3on3バスケットボールやスケートボードなど, 施設で行える種目が増加しています。また, 相模原ギオンスタジアムの整備によってこれまでより多様な競技が観戦できるようにもなりました。
今後も気軽にスポーツを楽しむことができるような環境がととのえられるにつれて, 市民生活の充実につながってゆくことでしょう。
主な体育施設場所別利用状況(平成25年度)
第4章 原始・古代の相模原
縄文土器(下原遺跡,縄文中期)
人々が相模原台地周辺の川沿いに第一歩を印したのは,今から3万年前前後のことです。自然環境に左右されながらも,人々は生き抜くために石器や土器など様々な道具を工夫し,力強く生きてきました。その生活ぶりを見ていくことにしましょう。
1 原始時代の相模原
赤土の中から
写真でわかるように,相模原地域では表面の黒土の下に関東ローム層という赤土が堆積しています。
これは,富士山や箱根山などの火山灰が降り積もってできた地層です。この赤土のなかから,約3万〜1万数千年前の旧石器時代(先土器時代)の人々が使っていた石器が発見されます。これらは,橋本遺跡,田名向原(むかいはら)遺跡など,相模原台地の相模川や鳩川(はとがわ),境川(さかいがわ)などの川沿いの遺跡から発見されています。特に,1999(平成11)年に国指定史跡となった田名向原遺跡の発掘では,約2万年前の住居とも考えられる跡が発見されました。
地層断面(市内上鶴間)
津久井地域における旧石器時代の遺跡は川尻(かわしり)遺跡,風間(かざま)遺跡群,小倉馬込遺跡などがあります。
この時期,石器の材料として多く使われている黒曜石は,長野県の和田峠や諏訪・蓼科(たてしな)周辺,神奈川県の箱根,静岡県伊豆地方,栃木県高原山などからもたらされたものであり,人々の領域の範囲はかなり広かったことが分かっています。
この時代は氷河期とも呼ばれ,寒い気候のなか,人々は食料となる動物などを求めて移動する生活であったと思われ,生活の跡からは狩りや採集で得た食物を蒸したり,焼いたりした場所と考えられる焼け石のまとまりが見つかります。
また,当時の人々の建物が見つかることはまれですが,田名向原遺跡からは炉の跡や柱の跡と思われる穴も数か所見つかり, 国内最古の建物跡と評価されています。今後の新たな発掘や調査によって,相模原だけでなく,全国の旧石器時代の様子が少しずつ分かってくるでしょう。
訪ねてみよう 国内最古で唯一確実な建物跡「田名向原遺跡」
市民調査員として発掘に参加した石藏(いしくら)政雄さんのお話
私が考古学に興味をもったきっかけは,30歳くらいの時読んだ「岩宿の発見」という本でした。一介(いっかい)のアマチュア青年であった*相沢さんが,はじめて我が国の旧石器時代の遺跡(いせき)を見つけたように,考古学にはまだまだアマチュアが入り込む余地があると思えたからです。
その後,博物館主催の考古学講座へ参加し,4年間勉強を積みましたが,発掘現場に参加する機会はあまりありませんでした。そこで,このたびの市の呼びかけに応じて「まず現場に行って,遺物を手に取ったときの感動を味わいたい」と考え,今回の田名向原遺跡の発掘調査への参加を決意しました。
調査員としての発掘は2001(平成13)年の8月の炎天下,2日間にわたって行われました。このときの発掘では,特に土を採取して脂肪酸や花粉を分析したり,炭化物の跡を探し出し,住居の中の炉で実際に火が使われていたことを詳しく調べることが目的でした。遺跡の発掘は何よりも慎重さと我慢強さが求められる地味な作業です。まして,旧石器時代の遺跡となると土器もなく,小さな石器やその破片が対象で,その遺物があると印となる串を地面に1本ずつ刺し,その串が何百本となるような作業です。
*相沢 忠洋(あいざわ ただひろ)(1926年6月21日-1989年5月22日)
日本の考古学者。納豆などの行商をしながら独学で考古学の調査研究を行っていたが,1949(昭和24)年に群馬県みどり市笠懸町阿左美(旧新田郡笠懸村岩宿)(岩宿遺跡)の関東ローム層から石器(槍先形石器)を発見し,それまで否定されてきた日本の旧石器時代の存在を証明した。
今後このように市民が発掘調査の現場に参加できる機会はもっともっと増えるべきです。中学生のみなさんも考古学に興味をもたれたなら,本を読み勉強することも大切ですが,実際に遺跡を訪ね,その時代に生きた人の土に触れ,その時代の人の気持ちを思うことは何よりも大切なことだと私は思います。
君たちも遺跡を訪ねてみよう
右の写真は石藏さんが発掘に携わった田名向原遺跡です。
遺跡は公園の中に保存され,建物跡の復元が展示されています。相模原にはここだけでなく,下の地図のように旧石器時代だけでもたくさんの遺跡があります。
石藏さんのお話のように,君たちもぜひ市内の遺跡を訪ね,その時代の人の生活を想像してみてください。
市内の主な旧石器時代の遺跡
行ってみよう 「旧石器ハテナ館」
田名向原遺跡は,国内最古と言われる旧石器時代の住居状の遺構が,国内で唯一良好な状態で確認された貴重な遺跡であり,1999(平成11)年1月に国の史跡指定を受け,現在は「史跡田名向原遺跡公園」として相模原市が保存・管理しています。
市では,この遺跡を身近に感じ,歴史や文化財について学ぶことができることを目的とした「史跡田名向原遺跡旧石器時代学習館(旧石器ハテナ館)」を2009(平成21)年4月に開館しました。
この学習館では,展示コーナーで旧石器時代の人々の生活の解説,石器の使われ方や石器の展示,住居状遺構の想定建物復元模型の展示などを見学し,旧石器時代の人々の生活の様子について,より具体的なイメージをもつことができます。
こんなことをやっています!
小・中学校などを対象とした出張授業を行っています。
例 : ●匂玉作り ●黒曜石で石器作り ●弓矢作り ●土器作り など
毎月定例体験教室を開いており、様々な体験ができます。興味をもったら旧石器ハテナ館を訪ねてみよう。
「旧石器ハテナ館」現地案内図
休館日:12月29日~翌年の1月3日
開館時間:
4月~10月
9:00~18:00
11月~3月
9:00~17:00
<アクセス>
JR相模線原当麻駅からバス15分
「田名向原遺跡」バス停下車,又は同駅から徒歩45分
縄文時代と勝坂遺跡
氷河期が終わり,温暖化が進んだ1万数千年ほど前,人々は水辺に近い土地に住みついて新しい生活を始めました。ドングリなどの木の実やヤマイモの根を掘り,シカやイノシシなどの動物,そして魚を食料としました。土器は食料の煮炊きや貯蔵の道具として誕生しました。
市内では,この縄文時代の遺跡がたくさん発見されています。
特に今から4〜5千年くらい前の縄文時代中期になると急激に遺跡が増え,鳩川・相模川や道志川・串川など川沿いの台地上に分布するようになります。
それは,木の実など植物質の食料を利用する技術が発達して生活が安定したためと考えられています。この時代の遺跡として勝坂(かっさか)遺跡(南区磯部)や川尻遺跡(緑区川尻・谷ヶ原),寸沢嵐(すあらし)遺跡(緑区寸沢嵐),大地(おおち)開戸(がいと)遺跡(緑区青野原),嵯峨(さが)遺跡(緑区吉野)などがあります。
しかし,この中期の終わり頃を境に,中部地方から関東地方西部にかけて遺跡は減少しています。気候の寒冷化とそれに伴う食料となる動植物の減少がその原因ではないかと考えられています。
勝坂式土器と勝坂遺跡
縄文土器と一口にいってもその形や文様は,時期や地域によって違い,独特な特徴をもっています。つまり,形や文様を見ることで縄文時代のいつ頃のものかと,どのあたりで使われていたかが,おおよそわかるのです。
市内にある勝坂遺跡は,1926(大正15)年10月,大山 柏(かしわ)氏がはじめて発掘し,ここから出土した土器の一部が,後に勝坂式土器と名付けられたのです。立体的な文様,装飾は縄文土器のなかでもひときわ目を引きますが,とりわけ,大きな把手(とって)は見事なものです。勝坂式土器は,関東地方西部から中部地方にかけての広い地域から出土します。これらの地域の人々はお互いに交流をもちながら生活し,この土器を道具として使用していたのです。勝坂式土器は縄文時代中期の中頃を代表する土器として広く名前が知られることになりました。
ところが,1972(昭和47)年,勝坂遺跡で大規模な宅地の開発が計画され,市民有志の「勝坂遺跡を守る会」が結成されました。相模原市は県や国と協議して発掘調査を行い,多数の竪穴住居跡などを確認しました。市は開発区域を保存し,1974(昭和49)年には保存区域が国の史跡に指定されました。現在は史跡勝坂遺跡公園として、相模原市が保存・管理しています。
相模原の縄文時代
発掘風景(下原遺跡)
勝坂式土器顔面把手(がんめんとって)(下溝大正坂遺跡)
上の中央の写真は,南区下溝の下原遺跡の発掘のようすです。土器の出土状況を記録に取るために慎重に掘り出しているところです。
この写真は,みなさんもよく知っている竪穴住居のあとです。直径4~5mぐらいの大きな円形状に地面を数十cmほど掘り下げてあります。中央には火を焚(た)いた炉の跡,周囲の穴はおもに柱をたてた跡です。4~6本の柱を立て,屋根をふいたと考えられます。このなかでおそらく,一家族が生活していたと思われます。
竪穴住居の跡(下溝遺跡群)
左下の写真は石を打ち欠いて作った石器です。柱の穴を掘ったり,食料にする植物の根を掘ったりするのに使われたと思われます。縄文時代の打製石斧だけでも,下溝遺跡遺跡群の上中丸・下中丸遺跡で4,400点以上,同じく下原遺跡では1,800点以上も発見されています。
右側の写真は矢の先につける石のやじりです。弓矢を使い,時には落とし穴なども掘り,シカやイノシシなどの動物を捕え,食料としていました。光っている石は黒曜石といわれ,長野県の諏訪地方や伊豆諸島の神津島(こうづしま)産のものであることから人々の交流の様子がうかがえます。
打製石斧(下原遺跡)
石鏃(せきぞく)(下原遺跡)
市内の主な縄文時代の遺跡
縄文時代は,動物のほかに植物の木の実なども大事な食料源でした。
橋本遺跡では左下の写真のように,竪穴住居の中から炭化したオニグルミが大量に発見されました。この当時は比較的温暖で,遺跡から発見された花粉からこの地域には様々な植物が生えていたことがわかってきました。
下の写真はドングリやクルミなどを粉にするとき使った道具です。くぼんだところに木の実を置き,砕いて粉にしたと考えられます。
ドングリの実のアクを抜く技術を覚えた縄文人は,木の実を土器などに保存し,粉に引いてクッキーのようにして食べていたらしいことがわかっています。
石皿(下)と磨石(すりいし)(上) (田名花ヶ谷戸(はながやと)遺跡)
川尻(谷ヶ原)遺跡と寸沢嵐遺跡
<川尻(谷ヶ原)遺跡>
川尻(かわしり)(谷ヶ原)遺跡は谷津川の西側の台地上に広がる遺跡で,その一部が「川尻石器時代遺跡」として1931(昭和6)年に国の指定史跡となっています。
遺跡からは旧石器時代から縄文時代,弥生時代,古墳時代,奈良時代,平安時代の各時代の人々の生活跡が見つかっていますが,特に縄文時代中期から晩期(今から約5000~2500年前)にかけて大きな集落跡があったことで知られています。集落からは多数の竪穴住居跡に加え,敷石住居と呼ばれる石敷きの住居跡が複数発見されました。
中期の集落は,数軒から十数軒の竪穴住居が広場を中心に環状に広がり,中期末から後期の集落は敷石住居が多く見られます。この住居の平面は柄鏡形(えかがみがた)をしており,この時期に特徴的な形です。
また,石を使ったお墓(配石墓)がまとまって見つかっています。後期後半から晩期には,土偶や石剣,石棒といった祭祀の道具が多く見つかっているのも特徴です。
<寸沢嵐遺跡>
寸沢嵐(すあらし)遺跡では,1928(昭和3)年に縄文時代の敷石住居跡が発見され,住居跡の部分が「寸沢嵐石器時代遺跡」として1930(昭和5)年に国の指定史跡になっています。
発見された敷石住居跡を見下ろす西側の台地上には,縄文時代中期の竪穴住居跡があり,小さな集落がありました。この集落が消滅し現れたのが敷石住居跡です。
今の内郷小学校グラウンドの周辺にも敷石住居が発見されており,そこでは魚網のおもりに使ったと考えられる多くの石錘(せきすい)が見つかっていることから川漁も盛んに行われていたものと思われます。
少ない弥生遺跡
九州や近畿,中国地方で弥生文化の始まった紀元前10〜9世紀頃,関東地方では,まだ縄文文化的な生活が続いていたものと考えられます。
県内に弥生文化が稲作とともに入ってきたのは,紀元前200年ころの弥生時代前期末から中期はじめです。ただ,本格的な稲作農耕が開始され,金属器が普及し始めたのは中期後半と見られ,県内発見の1,000ヶ所余りの弥生遺跡の大半がこれにあたります。なかでも,鶴見川支流域などの丘陵地に大規模な環濠集落(かんごうしゅうらく)が発達しました。
しかし,相模原からは,この時代の遺跡の発見例は少なく,津久井地域では中野大沢遺跡(緑区中野),三ヶ木(みかげ)遺跡(緑区三ヶ木),鼠坂(ねんざか)遺跡(緑区若柳)などで弥生土器が発見されていますが,人々の生活した集落や水田等の遺跡は発見されていません。
神奈川県内の主な弥生時代遺跡
2 古代国家の成立と相模原
古代国家の起こり
弥生文化が広がるなかで,各地に支配者たちが現れ,それらが結びつくことによって,やがて大和地域(奈良県)の勢力を中心とした政治的なまとまりができるようになりました。
県内では,4世紀の中頃〜後半のものといわれる平塚市の真土大塚山(しんどおおつかやま)古墳や川崎市の加瀬白山(はくさん)古墳から,畿内の大型古墳出土の銅鏡と同じ鋳型(いがた)で作られた鏡が出土しており,大和政権とのつながりが想像されます。
古墳時代は数世紀にわたっており,前期は大きな前方後円墳などが見られましたが,後期に入ると,小規模のものがいくつも集まった形で見つかります。
これは古墳が特定の大きな権力を握る王のものではなくなり,村のリーダー層にまで広まったことを意味しています。市内では7世紀前半に造られた谷原(たにはら)古墳群(中央区田名塩田〜南区当麻)がその一つで,武具・装身具などの副葬品が見つかっています。緑区には,川尻八幡宮境内(けいだい)に墳丘が失われ地表に露出した古墳の石室があります。これが相模川流域最北部にある古墳で,石室の状態から7世紀前半に造られた円墳と考えられています。
また,この時代崖面などに洞窟状に掘られた横穴墓(おうけつぼ)が造られます。特に緑区久保沢の春林横穴墓群(しゅんりんおうけつぼぐん)は,県内最西北部の大規模横穴墓群として有名です。なお,谷原古墳群に隣接した場所では,大規模な集落なども見つかっています。
神奈川県内の主な古墳
相模原の古墳
市内発見の古墳の多くは,7世紀,古墳時代の後期に造られたものです。大規模な前方後円墳などは見られず,小さな円墳や崖に掘られた横穴墓(おうけつぼ)などです。
この時代の相模原の支配者の詳しい様子はわかりませんが,武具や装身具を副葬する古墳の存在は小さなムラを支配する実力者の存在を裏付けるものといえるでしょう。
谷原古墳群(12号墳)
中央区田名塩田から南区当麻にかけて存在する谷原(たにはら)古墳群では14基が確認されています。1号墳は直径18mの円墳で,幅1.2m,長さ3.9mの横穴式石室(玄室)がありました。
また,水晶の切子玉(きりこだま),琥珀(こはく)の玉,管玉(くだたま),銀環と直刀(ちょくとう)や鉄鏃(てつぞく)などが出土しました。
境川に近い,中央区上矢部で発見された御所之入横穴は全長13m,幅2.2m,高さ1.7mで,1号横穴からは20歳前後と30歳前後の男性2体,2号横穴からは40歳前後の女性1体の人骨が出土しました。現在は,宅地化されて横穴墓は残っていません。南区鵜野森や同当麻周辺,緑区川尻でも,横穴墓が確認されています。
御所之入(ごしょのいり)横穴古墳(2号墳)
行ってみよう 「当麻東原古墳」
当麻東原(たいまあずまはら)古墳
JR相模線,原当麻(はらたいま)駅の西方500m,相模川を望む河岸段丘の崖の上(中段)の山林で1988(昭和63)年,古墳が発掘されました。
この古墳は当麻東原古墳といいます。直径16m,高さ3mの円墳で,長さ3.6m,幅1.3m,高さ1.6mの横穴式石室(玄室)をもっていました。
副葬品には,勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)などの装身具380点余りと鉄鏃(てつぞく)8本,刀子(とうす)2本とともに馬具が発見されたことが注目されています。市内の古墳出土の確実な資料としては初めてであり,神奈川県北部としても類例の少ない貴重な資料です。
右の写真は,現在市の博物館に展示されているこの古墳からの出土品です。鉄製のものは,鞍(くら)の両端に垂らし,足を掛ける鐙(あぶみ)の金具です。
現在,古墳は公園として整備されており,ここからは相模川低地の水田を見渡すことができます。地図を便りに古墳を訪ね,丘陵の上に立ってみてください。当時の豪族の気持ちが分かるかもしれません。そして,博物館も訪ねて,実物の副葬品をあなたの目で確かめてください。
律令制下の相模原
奈良時代に入り,675(天武4)年の10月20日,相模国高倉郡(さがみのくにたかくらぐん)で三つ子の男の子が生まれたことが日本最初の勅選の歴史書である『日本書紀』に記録されています。
高倉郡は後に高座郡とも書き,相模原台地はこの中に含まれていました。この頃地方では,律令制のもと,地方を治める行政区として国・郡(評(こおり))・里という組織が作られました。今の神奈川県にあたる地域は相模国と武蔵国の一部です。
市域は相模国に属し,相模原台地を中心とした地区は高倉郡,津久井地域を中心とした地区は愛甲郡であったと考えられています。
地方政治の仕組みが整えられたこの時代になって,相模原もはっきりと中央政府の支配のもとで動き始めたことがわかります。
奈良時代の相模国
平安時代の相模原
国・郡・里という組織のうち,里はやがて郷(ごう)という組織に改められました。郷は50戸をもって成り立ち,50戸に満たないものは「余戸(あまるべ)」といわれました。
高座郡には14郷あったことが「倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)」により明らかになっていますが,そのうち相模原地域にあったと考えられるのは「塩田(しおだ)郷」(田名辺(あた)りか) と「美濃郷」(境川上流域か)であり,田名塩田(たなしおだ)遺跡群からはこの時代の竪穴住居跡のほか,倉庫や作業場と思われる掘立柱建物跡が多数発見されています。
田名塩田遺跡群の竪穴住居跡
津久井地域の郷についてはよく分かっていませんが,奈良・平安時代のむらの跡が見つかっており,これらの人々は愛甲郡の「余戸(あまるべ)」郷として編制されていたのではないかといわれています。
緑区東橋本の矢掛(やがけ)・久保遺跡では,34軒の竪穴住居跡と27棟の掘立柱建物跡が発見され,広大なムラの一部が明らかにされました。住居跡の中から,律令制度の役人の存在を示す帯金具が発見されました。他にも,住居跡の中から,町田や八王子の多摩丘陵の窯(かま)で焼かれた須恵器(すえき)と呼ばれる土器が発見され,その地域の遺跡との関連も考えられています。
このころ,都では藤原氏などの貴族が寝殿造りの屋敷などではなやかな生活をしていましたが,地方の農民は依然として竪穴住居に住み,重い負担にあえいでいる毎日でした。
一方,豪族や有力農民達は荒地の開発を進め,こうした人々のなかから武士が生まれてくることになります。
市内の奈良・平安時代の遺跡
相模国分寺
741(天平13)年,聖武(しょうむ)天皇は,仏の加護によって国家の安泰をはかるために,諸国に国分寺・国分尼寺を建立することを命じました。
海老名は交通の要地であり,当時の相模国の中心的な場所であったと考えられます。周辺の農民を集め,相模国分寺は長い年月を要して奈良県にある法隆寺と同じく,東側に金堂,西側に七重搭,北側に講堂,南側にある中門から講堂まではぐるりと回廊がつながる大規模な建物群として全国でも大変珍しい配置です。なかでも自然石の礎石から推定される七重塔は,高さ約65mほどの塔であったと推定されています。金堂の本尊として釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を安置するのが本来ですが,878(元慶2)年に焼け落ちたときには薬師仏が納められていました。このように繁栄を誇った国分寺も,やがて地震や火災によって建物の大半を失いました。
また,律令制度の衰えとともに,国司や地方豪族の腐敗が始まり,建物の修理も思うようにならない状態で放置され,礎石を残すのみとなっていましたが,発掘調査が行われ,金堂跡周辺は地域の広場として市民の方々に利用されています。
海老名駅前の七重塔模型
海老名駅前の地図
七重塔礎石
〈詳しくは海老名市のホームページを見よう〉
第5章 中世の相模原
戦乱とききんの多いこの時代,人々は様々な困難や苦難のなかで,今以上に信仰によって心に平安を取り戻そうとする気持ちが強かったのではないでしょうか。鎌倉時代には鎌倉新仏教と呼ばれる新しい宗派がいくつか生まれました。そのなかのひとつ,一遍の開いた時宗は,当麻山無量光寺を本山として,武士から庶民に至るまで信仰されて大いに発展しました。
1 鎌倉幕府と相模原
鎌倉幕府と相模原の武土
1180(治承(じしょう)4)年,伊豆国(いずのくに)(静岡県)に流されていた源頼朝が兵を挙げ,東国の多くの武士は頼朝に従い御家人となりました。頼朝はやがて平氏を滅ぼし,国々には守護を,荘園・公領には地頭を置いて武士の力を広め,1192(建久3)年,朝廷から征夷大将軍に任ぜられて,鎌倉に幕府を開きました。
このころ相模原には,武蔵国横山荘(むさしのくによこやましょう)(東京都八王子市)を本拠地とする横山党と呼ばれる武士団がいて,頼朝の御家人として活躍していました。
横山党には粟飯原(あいはら)氏(緑区相原),小山(おやま)氏(中央区小山),矢部(野辺(やべ))氏(中央区矢部),田名氏(中央区田名),小倉(おぐら)氏(緑区小倉),大貫(おおぬき)氏(緑区中野辺(あた)り)などがいて相模原地域から津久井地域にかけて勢力をもっていたことがうかがい知れます。こうした武士たちは自分の所領を広げるため,市城に進出して館を構え,一族・郎党を率いて周辺の土地を開発していました。
そして,開発した土地の名前を自分たちの名字として名のりました。
横山党の一族のいた相模原には,こうした武士の館跡伝承地や鎌倉に通ずると言われる古道が残っています。中央区上矢部には矢部(野辺)氏の館跡の土塁(どるい)と伝えられるものが残っています。緑区小倉には「堀(ほり)の内(うち)」の地名が残っており,横山党の一族小倉次郎氏の館跡と伝えられています。
鎌倉時代はじめの相模原
また,田名氏が館を構えていたとされるところは,田名の堀ノ内(ほりのうち)と言われ,田名の堀ノ内が八瀬川(やせかわ)の水源となっていることから,田名氏が八瀬川流域の用水管理を行い,農民を支配していたことが考えられます。
横山党系図
矢部氏の館跡の土塁と伝えられる「上矢部の土塁」
横山党の起こりと発展
横山党のはじまりは,都から10世紀後半国司として下ってきた中流の貴族である小野孝泰(おののたかやす)といわれています。孝泰は武蔵国(むさしのくに)(東京都,埼玉県,神奈川県の一部)の国司として都から下りました。藤原氏全盛の頃なので,孝泰の子,義孝(よしたか)は都に帰らず,横山荘(八王子)という荘園に住み着き「横山大夫(よこやまだゆう)」と名のりました。
その後,横山氏はこの荘園を本拠地として,武蔵国だけでなく,北は上野国(こうづけのくに)(群馬県),南は相模国(神奈川県)の北部まで勢力を伸ばし「横山党」と呼ばれる武士団に発展していきました。
源氏とは,前九年の役(1051~62年)の頃から結びつき,横山経兼(つねかね)は源頼義・義家に従って, 奥州の豪族,安倍貞任(さだとう)を討つのに手がらをたてました。保元(ほうげん)の乱(1156年),平治(へいじ)の乱(1159年)にも頼朝の父,義朝に従って都で活躍しました。
相模原に一族が進出したのは,12世紀後半の時重(ときしげ)の頃です。彼は一族の力をさらに広げ,八王子から南に進み,境川流域の相原(あいはら)に館を構え,粟飯原と名のりました。この兄弟の一族が勢力を広めて,小山,矢部(野辺),田名氏となっていきます。時重の子,時広の妹たちが有力御家人の和田義盛(わだよしもり)・渋谷高重(たかしげ)の妻となっていることは,幕府とのつながりの強さを想像させます。
和田合戦と横山党の滅亡
1213(建保元)年5月2日,執権(しっけん)北条義時の横暴に恨みをもつ侍所(さむらいどころ)の長官,和田義盛が,横山党・渋谷氏などの武士の力をかりて兵を集めていました。頼朝の死後,幕府政治の実権はすっかり北条氏の手に移ってしまいました。北条氏は,頼朝の妻であった北条政子の地位を利用して,有力な御家人を次々とわなにかけて滅ぼし,義盛もそのわなにかけられてしまったのです。
当時を記録した『吾妻鏡(あづまかがみ)』によると,その日の午後4時頃から合戦は始まりました。横山党は,翌日が合戦という義盛との約束があったために,この時刻には間に合いませんでした。しかし,和田勢は勇敢に戦い,義時の館や幕府の建物にも火がつく激戦となりました。義時は危うく逃げ出し,各地の武士の力を借りて反撃に出たので,夜になると戦いは次第に北条勢が優勢になって進められました。
明けて3日の早朝,小雨の中を横山時兼(ときかね)が一族を率いて腰越浜(こしごえはま)に到着しました。
和田勢は,これを見て,鎌倉市中に攻め込みました。鎌倉の町のいたるところで再び戦いが繰り広げられましたが,義盛の同族,三浦義村(よしむら)が裏切って北条氏側についたため,夕方,ついに大将の義盛も力つき矢に当たって戦死してしまいました。横山党も首領の時兼をはじめ「粟飯原太郎・同小次郎・同藤五郎・たなの太郎・たなの兵尉(ひょうじょう)・小山太郎」など一族31人が郎党とともに討ち死にしてしまいました。これを和田合戦といい,戦いの後,横山荘は北条氏側の大江広(おおえひろもと)元の所領となり,横山党は滅んでしまいました。
和田坂(中央区上溝)
ここに和田榎(わだえのき)という大榎があったことから名づけられました。その榎は和田義盛が,横山党諸氏と親戚関係であったため,たびたびこの地を通り,あるときここで弁当を食べ,そのとき使った箸をさしたのが根づき,成長したものだと言われています。
奥三保とよばれた津久井
鎌倉時代,津久井地域にはまだ「津久井」という名は出てきません。鎌倉時代末の1323(元享3)年,幕府9代執権北条貞時の十三回忌供養のために鎌倉の円覚寺境内(えんかくじけいだい)に法堂(はっとう)を建立(こんりゅう)する際,幕府が用材を相模国奥三保屋形山(おくさんぽうやかたやま)(愛川町館山),鳥屋山(とややま)(緑区鳥屋(とや))から調達したことが古文書に記録されています。このことから,鎌倉時代,津久井地域は「奥三保(おくさんぽう)」と呼ばれ,現在も山地が多い地形からも木材の調達地として幕府から重要視されていたことが考えられます。
板碑は語る
中央区上矢部には,和田合戦で滅んだ横山党の矢部(野辺(やべ))義兼(よしかね)とその一族をとむらうため,90年後の1303(乾元(けんげん)2)年にたてられたとされる板碑(いたび)が残されています。板碑は死者を供養するため,又は自分が極楽浄土に往生できるように生前に建てた平たい石(塔婆(とうば))です。鎌倉から室町時代にかけて,おもに関東地方でたてられました。板碑には阿弥陀如来(あみだにょらい)の像や種子(しゅじ)〔仏・菩薩を標示する梵字(ぼんじ)(インドのサンスクリット文字)〕が彫ってあり,当時の浄土信仰(じょうどしんこう)の隆盛をよくあらわしています。
上矢部の板碑
小堂の中に保存されていますが,もとは近くの森にあったそうです。
板碑はコンクリート製の基礎に埋め込まれて,基礎からの高さが99cmで,幅が31cmあります。中央に描かれている阿弥陀如来は,のみで彫られたあとの線がよく残っています。
この板碑は市の有形文化財に指定されています。
板碑の分布
相模原市内では,現在知られているだけでも349の板碑(いたび)が確認されています。うち津久井地域では藤野地区72,相模湖地区40,津久井地区60,城山地区54が確認されています。その分布を調べると,河川の流域に板碑(いたび)が残されていることがわかります。
これらの地域には,古道が通じており,また,武士の館があったといわれる古い寺社などもあるので,かなり古くから開発され,村を作って生活していたと思われます。
津久井地域の板碑の特徴は,緑泥片岩(りょくでいへんがん)ではなく凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)の板碑が見られることです。これらの板碑は津久井地域を中心として分布していることから,中世の津久井地域には独自の石造文化圏があったのではないかといわれています。
板碑のたてられた時代は戦乱やききんが続き,人々の生活は不安な毎日の連続でした。そんな生活を送る人々の願いには,仏の力によって極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生することでした。そんな切ない願いを込めて板碑がつくられたのです。
相模原の板碑分布図 『相模原市立博物館研究報告』第6集1997より
一遍と当麻
1281(弘安(こうあん)4)年の夏,当時民衆から熱狂的な信仰をあつめていた一人の旅の僧が当麻(たいま)の宿(しゅく)にやってきて,この地に道場を開いて浄土念仏(じょうどねんぶつ)を広めたという記録が「麻山集(まざんしゅう)」という資料にあります。そして,それによればこの僧こそが一遍だといわれていますが,残念ながら確証はありません。
はねばはね 踊らば踊れ 春駒(はるこま)の
法の道をば 知る人ぞ知る 「一遍上人絵詞伝(えことばでん)」より
一遍は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏しながら,人々と踊り,全国を旅しながら教えをひろめました。これを遊行(ゆぎょう)といい,一遍の教えは後に時宗として成立します。
奥州での遊行を終えた一遍は,常陸国(ひたちのくに)(茨城県)から武蔵国の八王子を経て,当麻の宿へやってきたところでした。ちょうど,北九州へ元軍が攻めてきた頃なので,不安を感じる人々も多く,一遍のもとには老若男女(ろうにゃくなんにょ)を問わずたくさんの人々が集まったといいます。
「麻山集」によれば,当麻の草庵にしばらくとどまった一遍は,鎌倉へ旅立とうとしました。このとき,弟子たちが強く引き止めたので,一遍は池に映る自分の顔を見ながら自分自身の像を彫って,その像を当麻の地に残していきました。これが現在,当麻山無量光寺に伝わる木造一遍上人立像であるといわれています。翌年の夏,鎌倉へ旅立った一遍は,その後も全国を遊行し,1289(正応2)年に兵庫で亡くなったと記録されています。
一代の 聖教(しょうぎょう)みな尽きて
南無阿弥陀仏になり果てぬ
「一遍上人絵詞伝」より
一遍が当麻にきたと記されている資料。 1691(元禄4)年,当麻山38世是名(ぜみょう)がまとめる。
一遍はいつ当麻にきたか
一遍の一生を伝える資料としては『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』や『一遍上人絵詞伝(いっぺんしょうにんえことばでん)』が有名ですが,これらの資料には一遍が当麻にきたという記事はありません。
しかし,相模原市の無量光寺に伝わる『麻山集』という記録によると,一遍は当麻の地に,1261(弘長(こうちょう)元)年の23歳のとき,1270(文永(ぶんえい)7)年の32歳のとき,1281(弘安4)年の43歳のときの,前後3回来たことになっています。
一遍がはじめて当麻に来たときのようすを『麻山集』は次のように伝えています。
「弘長元年,上人が23歳のとき,上人は今の厚木市上依知(えち)の薬師堂で,一晩中念仏を唱えていました。北東の方角に不思議な光がさしているので,相模川を渡って行ってみると,丘の上に大木がこんもりとしげり,西方はるか大山をあおぎ,眼下に相模川を見渡すところ,そこには小さなお宮がありました。上人は,ここが寺を建てて教えを広めるにはこの上ない良い土地だと考えて,無量光寺のもとになる金光院(こんこういん)を開きました。
村人たちは上人の人柄を敬い,骨身を惜しまず力を合わせて寺を建てました。このとき,四国の河野(こうの)の一族(上人は河野氏の出身)である関山氏・白井氏などは,上人をしたって当麻山にたずねてきました。そして,上人を助けて,この地にすみついたということです」
『一遍聖絵』によると,一遍はこの年に九州にいたとあるので,残念ながらこれは事実ではないと思われます。
しかし,当麻山無量光寺は時宗を整えた二世真教が道場を開いた,時宗のなかでも特別の位置にある寺です。
一遍の遊行
明治はじめの無量光寺本堂
当麻山無量光寺
一遍の死後,時衆をひきいて教えをさらに広めたのは,二代目の真教(しんきょう)(他阿上人(たあしょうにん))でした。真教は,師の一遍のように,一生を遊行の旅で過ごそうと思っていましたが,かなり年も老いていたので1303(嘉元(かげん)元)年に一遍ゆかりの南区当麻の地に無量光寺を建て,晩年の15 年をこの地で過ごしました。
そののち,無量光寺は時宗の本山として栄え,多くの人々がこの地を訪れました。当麻山には道場が設けられ,門前には宿屋が立ち並び,市も開かれるようになりました。
しかし,四代目を真光(しんこう)と呑海(どんかい)が争い,呑海が藤沢に清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))を建てたため,時宗は明治時代まで無量光寺と清浄光寺との本山争いが続きました。1893(明治26)年,無量光寺は火災のため,本堂以下の多くの建物を失ってしまいました。
当麻山古絵図
調べて発表してみよう「一遍」
一遍(いっぺん)や,相模原に身近な人物についてさらに調べて,様々な方法で発表してみましょう。
●一遍をさらに調べてみよう!
① 本で調べる
図書館や図書室に行って関連の本を探す。歴史人物辞典・百科事典・鎌倉仏教についての本などを活用してみよう。
② インターネットで調べる
「一遍」で検索しただけでもたくさんのホームページが見つかります。
ただし,ホームページを参考にするのはかまいませんが,コピーしたりする場合は,ページ作製者の許可を取る必要があります。
・どこで,いつ頃生まれたのか? 生い立ちは?
・なぜ「遊行(ゆぎょう)」をはじめたのか? 「遊行」って何だろう?
③ 無量光寺に行ってみる
「百聞(ひゃくぶん)は一見(いっけん)に如(し)かず」一遍ゆかりの寺を訪ね,自分の目で見て写真やビデオを撮ってきましょう!
長い石段を登ると,左手に,無量光寺の由来が書かれている石碑が目に留まります。その石碑をしっかり読んでみましょう。難しい文字や言葉もあるので,書き写してくるか,とりあえず写真やビデオに撮ってきて,後からじっくり読むのもよいでしょう。
そして,境内の中に入ると,なんとあの一遍の像に出会うことができます。
無量光寺の石碑
一遍の鋭いまなざしから感じられる信仰への揺るぎのない決意が感じられることでしょう。
そして,本堂のわきには右の一遍の歌碑が目に留まります。「ひとりはいつもひとりなりけり」奥の深い言葉の意味も考えてみましょう。
一遍上人の歌碑
●まとめて発表してみよう!
さあ,今まで調べたことを自分なりにまとめて発表してみましょう。まとめ方はいろいろあります。
- 個人レポートの形にする。
- 「歴史新聞」のスタイルにする。
- 家庭用のビデオカメラを使って,ビデオ作品にする。
- パソコンのプレゼンテーションソフトを使う。
*たとえば,ビデオ作品なら・・・
①大まかなビデオ作品の流れ,事前に展開を考えます。
②生い立ち「遊行」の様子などは紙芝居などを作っておき,順を追ってビデオカメラにおさめていくように準備します。
③実際の台本を作り,画面のナレーション原稿を作ります。
④撮影開始。音声を同時に入れる方法もありますが,一人で作品を作る場合は大変なので,音声やバックミュージックは別にICレコーダーに画面に合わせて録音し,後から別のテレビ用のVTRを使って外部入力の音声の端子から画像と同時にダビングする方法が便利です。
⑤無量光寺を訪ねるシーンでは,ビデオを見ている人の目線と時間を考えながらゆっくりとブレないようにカメラを回すのがこつです。
⑥まずは家庭で発表会を持ちましょう。さらにアドバイスを受け,学校で友だちや先生にも見てもらって,評価を聞くのも楽しいと思います。
2 南北朝・室町時代の相模原
鎌倉攻め
1333(元弘(げんこう)3)年5月,新田義貞(にったよしさだ)の率いる軍勢が,鎌倉街道を攻め進んで北条氏は滅ぼされ鎌倉幕府はついに倒れました。そこで後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は,天皇中心の政治を行いました。
また,年号を建武(けんむ)と改めたので,これを建武の新政といいます。
当時,境川沿いの淵野辺には淵辺義博(ふちべよしひろ)という武士がいたとされ,足利尊氏(あしかがたかうじ)の弟,直義(ただよし)の家臣として活躍したといわれています。
また,境川の北(町田市)には小山田(おやまだ)氏がいました。
淵辺義博と護良親王
1335(建武2)年,信濃国(長野県)に逃げていた北条時行(ほうじょうときゆき)が,鎌倉を取り返そうとして,府中のほうから鎌倉街道を南下して攻め込んできました。そのため,鎌倉にいた足利直義は,武蔵国井出ノ沢(いでのさわ)(町田市菅原神社のあたり)で迎え討ちましたが,勢いにのる時行の軍勢にはかないませんでした。
鎌倉に帰った直義は,もはや鎌倉を守りきれないと考え,淵辺義博に護良親王(もりよししんのう)殺害を命じて兄の尊氏のいる西の方へ逃げていきました。南北朝の内乱を描いた『太平記』という軍記物に,淵辺義博の親王殺害の様子がくわしく書かれています。
淵辺義博の館跡と伝えられる場所
護良親王(~1335)
後醍醐天皇の皇子。武勇に優れ,建武の新政では征夷大将軍として活躍したが足利尊氏と対立し,鎌倉の牢に閉じこめられました。
古淵の大日堂
南区古淵の大日堂では,井手ノ沢の合戦で戦死した人々を供養する行事が今も伝えられています。
『太平記』の中の淵辺義博と護良親王
淵辺は直義の命令をかしこまって承知し,鎌倉の牢に引き返した。親王は暗闇の中で読経していたが,淵辺が来たのを知って「おまえは私の命をとりにきたな」と言い放ち,すかさず淵辺の太刀を奪おうとした。
しかし,親王は,半年以上の牢生活のため,足がふらついてしまった。そのすきに淵辺は親王を倒して馬乗りになった。親王の首をとろうと出された淵辺の刀は,親王がひどく暴れたため,そのきっさきを親王の口にくわえられてしまった。
何とか首を取った淵辺は,牢から出て親王の顔を見た。すると,口には刀が刺さったままで恐ろしい顔をしているので,主人の直義に首を見せられないと思い,首をやぶの中に捨ててしまった。
淵辺義博にまつわる伝説
淵野辺には,淵辺義博に関する伝説がいくつか残されています。
「義博は実は親王を殺さず,こっそり淵野辺につれてきて,しばらく龍像寺(りゅうぞうじ)の裏山の穴に隠した。やがて,義博は境川の橋の上で妻子に別れを告げ,親王と何人かの家臣を連れて,奥州の石巻(いしのまき)(宮城県)に落ちのびた」という話です。
また,別の伝説では「義博は淵野辺の人々を苦しめる境川に住む竜(大蛇)を退治した。その後,竜のたたりを恐れて,竜頭・竜像・竜尾の三つの寺を建て,その1つが現在の東淵野辺の龍像寺である」ということです。
中央区東淵野辺の龍像寺
護良親王と石巻
宮城県石巻(いしのまき)市には,親王をまつったという一皇子神社があり,また,多福院という寺には,親王が後醍醐(ごだいご)天皇をとむらうために建てたという石碑があります。
しかし,義博が本当に親王を連れてきた確実な証拠はありません。
照手姫の伝説
絶世の美女照手(てるて)姫と小栗判官(おぐりはんがん)の恋物語の伝承が市内各地に残されています。
照手姫は相模横山を支配した横山氏の娘といわれ,中央区横山台の榎(えのき)神社に祭られています。照手姫は姥沢(うばさわ)の館で生まれたといわれています。小栗判官のモデルは,室町時代の武将小栗満重(みつしげ)又はその子助重(すけしげ)といわれ,室町将軍方として関東公方持氏(くぼうもちうじ)と争い,1423(応永30)年8月,小栗城(茨城県)落城とともに逃走したといわれています。藤沢の清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))長生院(ちょうせいいん)に姫と小栗の遺品が今に伝えられています。
新戸長松寺文書
新戸長松寺文書
南区新戸(しんど)の長松寺(ちょうしょうじ)には,相模原市で一番古いとされる古文書(こもんじょ)が残されています。この文書を出した人は,室町幕府が東国を支配するためにおいた鎌倉府の長官,足利氏満(あしかがうじみつ)です。古文書には,1396(応永(おうえい)3)年12 月17 日の日付で,氏満が長松寺に田畑を寄進すると記されています。
ちょうど都では,足利義満(あしかがよしみつ)が南北朝の内乱を平定し,京都の北山に金閣を営んでいた頃で,室町幕府の力が最も安定していた頃です。しかし,東国では豪族の争いが絶えず,幕府の力は揺らいでいました。氏満自身も,この文書を出す半年ほど前まで北関東から東北地方へ出陣していました。
津久井と中世の寺社
南北朝期の足利義詮(あしかがよしあきら)書状には「相模国(さがみのくに)毛利庄奥三保内若柳(もうりのしょうおくさんぽうないわかやなぎ)・日連(ひづれ)・牧野(まぎの)等」が足利尊氏によって極楽寺(鎌倉市)に寄進(きしん)されたことが記されています。また,1398(応永5)年には,3代将軍足利義満が,京都妙顕寺(みょうけんじ)(京都市上京(かみぎょう)区に対し「相模国奥三保内(さがみのくにおくさんぽうない)吉野・藤野両村」を寄進しています。このように,南北朝期,奥三保(おくさんぽう)と呼ばれた津久井地域は足利将軍家の直轄領(ちょっかつりょう)であり,一部は幕府に関わりのある寺院に寄進され経営されていたことが分かります。
なお,緑区佐野川の浄禅寺(じょうぜんじ)には足利義満の位牌(いはい)が伝わっています。
また,津久井地域には現在52の寺院がありますが,そのうちの半数近くの25は臨済宗の寺院です。
緑区青山にある光明寺は鎌倉建長寺の末寺で,夢窓疎石を開山として伝えている寺です。もとは鎌倉にあり,三浦氏や上杉氏の文書を所持しており,永正年間の末,三浦氏が滅びると津久井に移ったと伝えられています。緑区中野の祥泉寺(しょうせんじ)も建長寺末寺ですが,1530(享禄3)年2月18 日祥泉寺熊野堂棟札写(むなふだうつし)には「巨福山後堂江首座(こふくざんこうどうこうしゅざ)」が熊野堂の願主となっています。「巨福山」は建長寺の山号であり,熊野堂は建長寺に連なる禅僧の保護を受けていたことが分かります。このように臨済宗寺院と鎌倉寺院とのつながりが考えられます。
太田道灌に滅ぽされた磯部の城
その後,東国では足利持氏(もちうじ)が反乱を起こしたので,幕府は上杉氏を関東管領(かんとうかんれい)にして関東を治めさせました。しかし,上杉氏内部にも争いがあり,なかでも15 世紀末からはじまる山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の対立はすさまじいものでした。
11 年も続いた応仁の乱の終わった1477(文明(ぶんめい)9)年には,関東にも大きな乱が起こりました。上野国(こうづけのくに)(群馬県)の長尾景春(ながおかげはる)が,主家である山内上杉氏に反乱をおこし,大名になろうとしたからです。そこで,両上杉氏は江戸城や川越城を築いたことで有名な扇谷上杉定正(うえすぎさだまさ)の家臣太田道灌(おおたどうかん)を大将として景春を討たせました。このとき,相模原の磯部城は景春方だったので,愛川の小沢(こさわ)城・厚木の溝呂木(みぞろぎ)城・横浜の小机(こづくえ)城とともに攻め滅ぼされてしまいました。しかし,城を落ち延びた残党は奥三保に立て籠もったため,道灌は弟の資忠・六郎を大将として攻め込ませました。残党である景春方の本間近江守(ほんまおうみのかみ),海老名左衛門尉(えびなさえもんのじょう)らが甲斐国の武士団と手を組み逆襲しましたが,海老名らは討ち取られてしまいました。このときも津久井地域は奥三保と呼ばれていましたが,反上杉方の地域であったことがうかがい知れます。
景春の乱の後,太田道灌は,主人の扇谷上杉定正の誤解をうけて殺されてしまいました。その後,山内・扇谷両上杉氏は対立し,ますます関東の政治は乱れ,やがて戦国の世に移っていきました。
3 戦国時代の相模原
北条早雲
太田道灌(おおたどうかん)の死後, 山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏は1488(長享2)年,相模国実蒔原(さねまきはら)(伊勢原市)で激突するなど関東各地で衝突をくり返しました。扇谷上杉定正は相模国の隣国伊豆国(静岡県)の山内上杉氏勢力の攻略を駿河国興国寺城(するがのくにこうこくじじょう)(静岡県沼津市)にいた今川氏親(うじちか)の重臣伊勢新九郎に頼みました。彼が後の北条早雲(ほうじょうそううん)です。早雲は伊豆に入ると足利茶々丸(ちゃちゃまる)を討って韮山城(にらやまじょう)(静岡県伊豆の国市)を本拠として伊豆を平定し,1495(明応4)年には扇谷上杉氏の重臣で小田原城主の大森藤頼を夜襲をかけて追い出し,相模国へ進出しました。
山内・扇谷両上杉氏は早雲の相模進出を受けて1505(永正2)年和睦しています。
また,その頃相模国中央部から東部にかけて勢力をもっていたのは扇谷上杉氏の重臣で岡崎城(伊勢原市)・新井城(三浦市)を拠点とする三浦氏でした。
早雲は1510(永正7)年,武蔵国に侵入し椚田城(くぬぎだじょう)(八王子市初沢町)を落としていますが,このとき津久井山にいた長尾景春の家臣吉里一族が早雲に味方して挙兵しています。吉里一族と戦ったのは上杉氏と三浦氏でした。早雲は1512(永正9)年,岡崎城を攻め陥落させましたが,この年当麻山無量光寺に北条氏から制札(北条軍が乱暴な振舞いをしないよう保証するもの)が出され,相模原地域が北条氏の支配下に入ったことがうかがえます。
三浦氏は1516(永正13)年に新井城が陥落して滅び,相模国は北条氏が完全に支配することになりました。以降,北条氏は1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原攻めに至るまで,市域を支配することになります。
早雲の制札
早雲は,60歳のとき足利茶々丸(ちゃちゃまる)を殺して伊豆国(静岡県)を奪い取り,64歳のとき,小田原城を手にいれました。この年には,相模国(神奈川県)の豪族,三浦氏を岡崎城(伊勢原市)に破り,一隊は鎌倉に進んで三浦氏を三浦半島に閉じ込め,当麻に進んで相模国北部を占領しました。
北条氏の相模原支配
1559(永禄2)年,北条氏3代当主北条氏康(うじやす)は,家臣団の知行高(貫高)を把握し,家臣に課す諸役の基準を示す「小田原衆所領役帳(「北条氏所領役帳」などとも言う。以下「役帳」と表す。)」を作成しました。
これによって,北条氏の領国の支配体制と領国内の村の状況が分かります。相模原の地は,境川沿いの中央区上矢部・南区鵜野森・南区上鶴間に北条氏当主の直属の武士(御馬廻衆(おうままわりしゅう))の所領,緑区相原・中央区上溝・南区下溝・座間市に至る相模原台地西部は油井領(滝山城主北条氏照(うじてる)の所領),中央区田名には松山衆神尾善四郎,南区当麻には地元の領主層である「当麻三人衆」,津久井・厚木方面との接点になる磯部には「津久井衆」の野口氏・内藤氏が所領をもっていました。相模原中央部はこの頃まだ原野で,人はほとんど住んでおらず「溝原(上溝・下溝)」「渕辺原(淵野辺)」というように周辺の村名をもって名付けられた入会野でした。当時の人々は畑作をする傍(かたわ)ら,これらの原野で草木や萱を取り,肥料や燃料にしていました。
一方,津久井の領主たちは「津久井衆」とよばれ,筆頭に内藤氏がいました。内藤氏が, どのような経緯で津久井衆を束ねる立場になったかは不明ですが,1524 (大永4)年,光明寺(緑区青山)に菜園を寄進しており,その頃には津久井一帯を支配する領主となっていたと考えられます。
「役帳」には津久井衆として約50 名の武士の名と所領が17 か村の村ごとに記されており,所領の規模の小ささから津久井衆の多くは地元の地侍と考えられています。内藤氏の所領は津久井城に近い緑区太井(おおい)・川尻・中沢・三井(みい)から相模川沿いに同千木良(ちぎら)・吉野・名倉(なぐら)・小淵(おぶち)と広がり,厚木市・愛甲郡にも所領があります。内藤氏は津久井城主として村々にいる地侍を束ねる役割にありました。
境目の地 津久井
「役帳」では,緑区吉野・沢井・小淵・日連・名倉といった甲斐国境に近い村々が「敵知行半所務(てきちぎょうはんしょむ)」となっています。
また,奥三保17か村のうち,8か村は「小山田所務(おやまだしょむ)」となっています。当時隣国甲斐国上野原には武田方の豪族加藤氏がおり,岩殿山(いわどのやま)城主小山田氏(山梨県大月市)は武田氏の重臣として郡内(山梨県東部)を支配していました。戦国時代,津久井は甲斐国に近く,武田氏と北条氏の勢力の境目の地であり,北条氏の支配が安定していなかったことが伺えます。
「妙法寺記」では,1524(大永4)年,山内上杉氏の要請を受け出動した武田信虎が小猿橋(緑区吉野辺り)で北条氏と合戦,翌年もたびたび合戦していますが「津久井の城いまだ落ちず」とあり,津久井城が北条氏にとって境目防備の城として重要であったことが分かります。
北条氏の民政
北条氏康は1542(天文(てんぶん)11)年から1543(天文12)年にかけて相模国内で検地を行いました。検地の結果は貫高で示され,これにより農民は年貢や夫役(ぶやく)(労役)を決められたことから負担が大変になりました。
1546(天文15)年の河越合戦で関東管領(かんとうかんれい)山内上杉憲政(やまのうちうえすぎのりまさ)を破った氏康は,さらに軍事力の増強を図ったものとみられ,1547(天文16)年,陣夫(じんぶ)(夫役の一つ)を増やすなど,北条氏の農民に対する課役は一層厳しくなったと考えられています。 農民の中には,負担から逃れるため村を抜けだす者が出ましたが,1550(天文19)年,氏康は「国中の諸郡が退転」つまり「疲弊(ひへい)してしまった」として,農民に「これからは,すべての夫役の代わりとして,100 貫文の土地からは6貫文の銭を出すことにせよ」と夫役を銭で納めることを認め,村に帰らない農民に対しては「借銭(しゃくせん)や借米(しゃくまい)は免除する」と約束した文書を磯部郷と田名郷の農民にそれぞれ出しています。一方で,地元の領主が勝手に定められた以上の年貢や夫役を強いることのないよう定め,北条氏が直接農民を把握して支配を強化しようとしました。
北条時代の相模原
当麻の宿
当麻の宿は,1303(嘉元元)年に時宗本山当麻山無量光寺が建立されて以来,門前町として栄えていました。1518(永正15)年ころ手狭となり,新しい市場が「宿」集落の近くに開かれました。当麻宿は小田原城と北条氏照の滝山城を結び,さらには川越を経て上野(こうづけ)国に延びる街道の要地であったため,関所が設けられ人や物が集まり大いに栄えました。市は月六回開かれる六斎市でした。この宿の管理をまかされていたのは「当麻三人衆」のひとり関山一族でした。関山氏は,旅人・道者・商人の宿泊料や貨物の輸送料を取り立て,さらに定期市に集まってくる商人から場銭(利用料)も取っていました。しかし,北条氏に対しては,伝馬を仕立てる義務を負っていました。市場は後に北条氏が滅ぶとともにいったんは衰えますが,江戸時代に入り村々の願い出によって再興されました。
明治期の当麻宿
伝馬手形(てんまてがた)の印 「常調」と彫ってある印の上に,馬がえがかれている。
伝馬(てんま)
北条氏は小田原城と関東各地の支城の連絡がすぐとれるように,街道の要所に宿駅を設け,人馬を置きました。これを伝馬制度といい「伝馬手形」を持った者は,関所を自由に通ることができました。
当時のもの売り(「七十一番職人歌合」より)
三増合戦
1569(永禄12)年10 月,緑区橋本・中央区上溝・南区下溝,さらに南区当麻を武田信玄の2万の兵が進軍していきました。今川義元が桶狭間(おけはざま)の戦い 1560(永禄3)年に敗北したのち,北条氏は今川氏支援の名目でその領地を,甲斐国(かいのくに)(山梨県)の武田氏と争っていました。このとき,北条氏は,駿河国(するがのくに)(静岡県の東部)の支配に力を注いでいて,小田原城を1万足らずの兵で守っていたのです。信玄は,この背後から小田原城を突くつもりだったのです。
まず,八王子の滝山(たきやま)城を攻めましたが,城主北条氏照(うじてる)が力戦したため,城下に火を放ち,本隊は,相原・溝・当麻と進み,磯部の勝坂に陣を敷き,新戸・座間から厚木・平塚を通り,小田原城へ向かいました。城門を閉ざし姿を見せないので,武田軍は城下を焼き払い,引きあげ始めました。すると,北条氏照ら2万余りの北条軍は旧小田原道から依知(えち)(厚木市)に入り,三増(みませ)で待ち構えたのです。武田軍が相模川に沿って北上し,中津川を通って三増峠(愛川町)へさしかかったとき,半原・田代に陣取っていた氏照の軍が攻めかけました。
武田軍は最初苦戦し, 侍大将(さむらいだいしょう)の浅利信種(あさりのぶたね)が戦死するなど多くの犠牲を出しましたが,別働隊の山県昌景(やまがたまさかげ)が韮尾(にろうね)根(緑区根小屋)から援護に駆けつけ,小幡重貞(おばたしげさだ)の部隊は内藤綱秀(ないとうつなひで)のこもる津久井城を包囲するなど活躍し,北条軍は約3,200 の戦死者を出して敗北しました。武田軍は戦いが終わると道志川を渡り反畑(そりはた)(緑区寸沢嵐)で戦勝の祝いを行いました。津久井地域の各地に残る「信玄道」はこのとき武田軍が通った道です。この後も北条氏による支配は続きましたが,都では織田信長が室町幕府を滅ぼし,1573(天正元)年全国統一の仕事を進めていきました。
三増合戦陣立図(田名村小川家所蔵文書による)
三増合戦碑(愛甲郡愛川町)
信玄道(緑区長竹)
浅間森(せんげんもり)(緑区寸沢嵐)…武田軍が討ち取った北条方の首を葬(ほうむ)ったと伝えられる
北条氏の滅亡
北条氏は,織田信長とは友好関係を保ち,武田家滅亡に手を貸したりしていますが,信長の死後豊臣秀吉の世になると再三の上洛の命に従わず,秀吉はついに1589(天正17)年小田原征伐の宣言をしました。翌年,秀吉は約32 万の大軍で沼津に集結し,その後関東一帯80 か所に籠城する北条軍の掃討に取りかかりました。
津久井城主内藤綱秀(ないとうつなひで)は,八王子城主北条氏照(ほうじょううじてる)ら有力な城主と共に小田原城へ立て籠もり,津久井城には留守部隊150 騎,約2,000 人ほどが立て籠もりました。津久井城は徳川勢の本多忠勝(ほんだただかつ)・鳥居元忠(とりいもとただ)・平岩親吉(ひらいわちかよし)の軍勢12,000人に攻められました。6月23 日八王子城が上杉景勝らの総攻撃により落城すると津久井城も続いて降伏し落城しました。城の南に広がる緑区根小屋(ねごや)の金原(かなはら)地区には「前陣馬」「奥陣馬」「勝どき畑」「首塚」など戦に関連すると考えられる地名が残されています。
また,中央区上溝には落城した津久井城を歌った「ぼうち唄」が伝わっています。
<ぼうち唄>
津久井の城が 落ちたげな
弓と矢と小旗の竿が流れくる
秀吉は,徳川家康に関東6か国(武蔵・相模・伊豆・上総・下総・ 上野)を与え,相模原も家康の支配下に置かれました。翌1591(天正19)年から,家康は相模原の検地を行い,中央区田名や南区当麻には,そのときの検地帳やその写しが残されています。
また,刀狩も行われ,北条氏の小代官をつとめていた田名の江成(えなり)氏や,当麻の宿の管理を任されていた関山(せきやま)氏は,武士をやめて農民になりました。津久井地域では,北条氏の家臣であった守屋氏が新しく代官として登用されました。こうして相模原も,新しい世の中を迎えることになります。
訪ねてみよう「津久井城」
「新編相模国風土記稿(しんぺんさがみのくにふどきこう)」によれば,津久井城[資料1][資料2]の築城は鎌倉時代三浦一族だった津久井氏が当所に所領を与えられた際に築かれたとされますが,定かではありません。現在残る遺構は戦国時代,北条氏によって整備されたものです。
城は連山に築かれた山城で山麓には城主の館や家臣の屋敷がおかれ「根小屋(ねごや)」と呼ばれました。根小屋は城周辺の根本(ねもと)・城坂(しろさか)・小網(こあみ)・荒久(あらく)・馬込(まごめ)地区一帯に広がっていたとされています。
城坂地区には御屋敷跡・馬場などの地名が残り城主館跡があったと考えられています。山頂部には本城曲輪(ほんじょうくるわ)・太鼓曲輪(たいこくるわ)・飯縄神社のある飯縄曲輪など山の尾根上に曲輪が配されており,一部には土塁や石積みの遺構が見られます。曲輪の間は堀切(ほりきり)があり,敵に侵入を防ぐ工夫がされています。
また,飯縄曲輪東下の宝ヶ池は津久井城の水の手で,今も水が涸れずに湧いています。
城周辺には内藤氏のものと伝えられている墓がある功雲寺,三増合戦のとき北条方の首を葬ったとされる富士塚,津久井城からの攻撃を防ぐため武田軍が兵を隠したと伝えられる隠し沢など津久井城の歴史に関連した場所や地名伝承地がいくつかあります。
津久井城の縄張り図(「津久井町の歴史今昔」より)
第6章 江戸時代の相模原
小山村絵図 1807(文化4)年
江戸時代の相模原の歴史は,開拓の歴史です。平和が続くこの時代に,各地で大規模な開墾がくりひろげられました。18世紀になると,相模原には養蚕をはじめとする農民の「諸稼ぎ」が盛んになりました。それとともに豊かな農村文化が花開きました。
1 江戸幕府の成立と相模原
新しい領主
1590(天正(てんしょう)18)年,徳川家康(とくがわいえやす)は豊臣秀吉の命に従い,江戸(今の東京)に入って,北条氏に代わり関東を治めました。家康は,関東に入るとまもなく榊原康政(さかきばらやすまさ)を総奉行に,その下に青山忠成(あおやまただなり),内藤清成(ないとうきよなり)等を配して,一族や家臣の知行(ちぎょう)割り(領地決め)を行いました。
当時の相模原は高座郡の一部(12か村)と津久井領(22か村)から成り立っていましたが,江戸に近いことから,徳川氏が直接治める直轄地(ちょっかつち)や旗本領とされました。境川ぞいの相原(あいはら),矢部(やべ),淵野辺(ふちのべ),鵜野森(うのもり)村が徳川氏の直轄地,上鶴間(かみつるま)村が徳川氏直轄地と旗本知行所に二分され,相模川沿いの大島(おおしま),田名(たな),当麻(たいま),磯部(いそべ),新戸(しんど)村は内藤清成,中段の上溝(かみみぞ)村,下溝(しもみぞ)村は青山忠成の知行地とされました。津久井領は,若柳(わかやなぎ),青山(あおやま),沢井(さわい)村のそれぞれの一部以外はすべて徳川氏の直轄地でした。秀吉の死後,家康は1603(慶長(けいちょう)8)年,征夷大将軍となり,江戸に幕府を開きました。
これから,相模原は約260 年間,江戸幕府の支配を受けることになります。
「家康関東入国当時の領主」
当麻村の検知
家康の関東入国の翌年,1591(天正(てんしょう)19)年2月,当麻村に多くの役人がやってきて,3日間にわたって検地を行っていきました。検地を行ったのは,この地の新しい領主となった旗本内藤清成でした。清成は「関山弥七郎(やしちろう),渋谷采女(うねめ),中嶋五郎右衛門(ごろうえもん)」ら現地の有力農民を案内人として,部下に竿と縄をもたせて,当麻村のすべての田,畑,屋敷地を測量していきました。その結果は「相州東郡渋谷庄当麻郷野帳(そうしゅうひがしぐんしぶやのしょうたいまごうのちょう)」に記されました。
この年は,当麻村の他にも新戸,磯部,田名,大島村でも検地が行われました。小田原の北条氏が滅びて1年もたたないうちに相模原の農民たちは,検地を通して新しい支配体制のもとにおかれることになりました。
めまぐるしく代わる領主たち
相模原34か村のうち相模原地域では,16世紀の末に上九沢(かみくさわ)村が大島村より分かれたとみられ,さらに上相原(かみあいはら)村が1646(正保(しょうほう)3)年の検地後,上相原,橋本, 小山,下九沢(しもくさわ)村の4か村に分かれました。そして,1684(貞享(じょうきょう)元)年に新しく上矢部新田(かみやべしんでん)村ができると,17か村となりました。幕末期に清兵衛新田(せいべえしんでん)村ができるまで,この17か村の体制が続きます。
津久井領では,1616(元和(げんな)2)年の検地後に青根(あおね),又野(またの),根小屋(ねごや)村が牧野(まぎの),中野(なかの),長竹(ながたけ)村よりそれぞれ分かれ,1619(元和5)年には寸沢嵐(すあらし)村が若柳村より分かれました。さらに,1630(寛永(かんえい)7)年の検地により川尻(かわしり)村が上川尻村と下川尻村に分村し,1664(寛文(かんぶん)4)年の検地により中沢(なかざわ)村が上中沢村と下中沢村に,長竹村が上長竹村と下長竹村に分村しました。これにより,津久井領では幕末まで29か村の体制が続きます。
江戸幕府が成立してから18世紀の前半まで相模原の領主はめまぐるしく何度も代わりました。江戸時代を通じて領主が代わらなかったのは上鶴間村の大岡氏の知行地のみで,他の村々は幕府領,旗本知行所,大名領と転々とします。
「当麻郷野帳」と「田名村検知目録写」
←当時の面積
当麻郷野帳(たいまごうのちょう)
1591(天正19)年,内藤清成によって行われた検地の実態を今に伝えるのが「当麻郷野帳」です。
野帳は検地の現場で作成された仮の台帳で,検地帳のもとになりました。田畑の等級(上・中・下の3段階),面積,田畑の持ち主が記されました。「当麻郷野帳」には記載はありませんが,検地帳には村の石高が最後に記載されます。
当麻郷野帳は市の有形文化財に指定されています。
「田名村検地目録写」
1591(天正19)年,田名村では,代官頭(だいかんがしら),彦坂元正(ひこさかもとまさ)によって,検地が行われました。その時の検地帳は残っていませんが「田名村検地目録写」が残されていて,検地の様子を少し知ることができます。
検地目録によると,田名村の耕地,田畑合計102町(ちょう)3反(たん)(102.3ha)余に対して,各耕地の生産高を石高(米の量,1石(こく)=150kg,10斗(と)で1石)で示す基準が決まりました。たとえば,上田(じょうでん)1反につき1石,中田(ちゅうでん)は7斗,下田(げでん)は5斗,米のとれない畑地についても,「上畠(じょうばた)」7斗,「中畠(ちゅうばた)」5斗,「下畠(げばた)」3斗,屋敷地さえも1石と,石高の基準で生産高が示されることになりました。年貢は,田地については米で納めましたが,畑地については「上畠」1反につき「永楽銭(えいらくせん)140文」というような基準が設けられ,銭納(せんのう)としました。
近世相模原 領主のうつりかわり(相模原地域)
近世相模原 領主のうつりかわり(津久井地域)
1697(元禄(げんろく)10)年から宝永(ほうえい)年間(1704~1710)にかけて,地方直(じかたなお)しが行われました。これは,蔵米(くらまい)取りといわれる幕府の蔵から米を受け取っていた中小の旗本たちが,地方取りといって,支配地で直接,給与を年貢として徴収するものに改めるものでした。これによって,相模原の幕府領は多くの部分が中小の旗本の知行所(ちぎょうしょ)となっていくことになります。
また,分郷(わけごう)といって,一つの村をいくつかに分けて,何人もの領主が支配しているのが多いのも特徴です。例えば,17世紀の終わりの上溝村は6人の旗本の知行地となっています。このように分郷されて,何人もの領主をもつ村落を相給(あいきゅう)村落といい,上溝村は6給の村落ということになります。
18世紀の前半,田名,大島村と淵野辺,上矢部,上矢部新田,小山,上溝,下溝村の一部が大久保常春(おおくぼつねはる)の烏山(からすやま)藩(栃木県)領に,磯部,下溝,当麻村の一部が大久保教寛(のりひろ)の荻野山中(おぎのやまなか)藩(厚木市)領にそれぞれくみこまれ,また,教寛の四男教平(のりひら)に当麻村と磯部の一部が与えられました。さらに,19世紀の前半になると,上中沢,下中沢,牧野,青根,鳥屋(とや),中野,又野,青山,上長竹,下長竹,根小屋村と青野原(あおのはら),太井(おおい)村の一部が大久保忠真(ただざね)の小田原藩領に,若柳村と下川尻,日連(ひづれ)村の一部が大久保忠愨(ただなお)の小田原藩領にそれぞれくみこまれました。
相模原を支配した領主たち
1590(天正18)年,家康の関東入国のとき,相模原地域の中段,下段から相模川沿いの村々の領主になった青山忠成(あおやまただなり)と内藤清成(ないとうきよなり)は,家康の三河(みかわ)以来の有力旗本で,幕府成立期の農政に活躍しました。二人とも大名,老中まで進みましたが,家康の勘気(かんき)にふれて職を退いています。
内藤清成は,新戸村に陣屋を設け「相州当麻5,000石」といわれる所領支配の拠点としました。新戸には現在も「陣屋小路(じんやこうじ)」という地名が残っています。また,新戸のとなりの座間の宗仲寺(そうちゅうじ)には,内藤氏一族のもととされる墓碑が残されています。
上溝,下溝村の領主となった青山忠成の子,忠俊(ただとし)は3代将軍家光の「もり役」を勤める大名でしたが,1623(元和9)年,家光の怒りにふれ,所領を没収されました。忠俊は,一時,下溝の天応院(てんのういん)の前に長屋を建てて,主従ともに仮住居にしたと伝えられています。
南区下溝の天応院
その後,相模原の村々は幕府領,大名領, 最後に旗本領と何度も領主を代えていきます。相模原を治めた大名としては,徳川忠長(ただなが)(3代将軍徳川家光の弟),老中として幕府政治に重きをなした松平信綱(まつだいらのぶつな),久世広之(くぜひろゆき)らがいます。いずれの場合も,大名の本領とはちがう所領の充足地として相模原の村々があてられました。
17世紀末~18世紀初めにかけての「地方直(じかたなお)し」後,境川沿いの幕府領の村々は,旗本知行所になります。このとき,上相原,小山,橋本村に知行所をもった藤沢氏は,幕末期に当主となった次謙(つぐよし)が,軍艦奉行や陸軍副総裁という幕府の要職を務めています。
さらに,1718(享保(きょうほう)3)年には小田原藩から分家した大久保教寛(のりひろ)の荻野山中藩(厚木市)領に磯部,下溝,当麻村の一部がくみこまれ,つづいて1728(享保13)年には,大久保常春(つねはる)の烏山(からすやま)藩(栃木県)領に田名,大島村と淵野辺,上矢部,上矢部新田,小山,上溝,下溝村の一部がくみこまれました。
荻野山中藩は,13,000石の小大名でしたが,厚木の荻野の陣屋は相模原に近く影響力がかなりありました。また,烏山藩3万石の本領は下野(しもつけ)国(栃木県)にありましたが,相模国には1万石の所領があり,同じく厚木に陣屋を構え相模原の村々を支配しました。烏山藩の農民支配は,苛酷をきわめ,高率の年貢とたび重なる御用金(ごようきん)の賦課(ふか)は相模原の農民の生活をおおいに苦しめました。
津久井領の総検地
江戸時代の検地は,村全体を測る検地を総検地と呼び,その後新たに開発された新田のみを対象として行う検地を新田検地と呼びました。津久井領では,1604(慶長(けいちょう)9)年と1664(寛文(かんぶん)4)年に総検地が行われました。
慶長の総検地では,一般的に用いられる石高制(こくだかせい)は採用されず,銭(永楽銭(えいらくせん))の単位で表す永高(えいだか)制が採用されました。これは寛文の総検地により石高制に改められるまで,ほぼ60年間にわたり施行されました。永高制が実施された地域は,神奈川県内では津久井領と鎌倉郡の一部の寺社領で,全国的にも珍しいことです。
1664(寛文4)年4月に,津久井領の村々は新たな領主を迎えました。前年に老中に就任したばかりの久世広之(くぜひろゆき)です。広之は津久井領の村々が所領に編入されると,ただちに検地を実施しました(鳥屋村を除く)。これが寛文の総検地です。
この検地の特徴として,永高制が石高制に切り替えられたということ以外に,村の生産量である村高が飛躍的に増加したということがあげられます。左の表はその一例です。いかに久世氏の検地が厳しかったかがわかります。
寛文検地前後の村高変化(一部)
永高制と石高制
戦国時代の小田原北条氏が使用していたものの名残である永高制は年貢高を意味し,銭の単位で表しました。それに対して石高制は,近世の土地制度の基本である田畑の生産性を意味します。寛文の総検地により津久井の村々は中世の古い体制に終止符がうたれ,近世の体制になっていきました。
各村の石高
下の表は,17世紀後半に行われた検地の結果をもとに,相模原46か村の村の田,畑の面積と石高を一覧にしたものです。
検地では,土地の生産高を石高(こくだか)(米の量・1石=米150㎏)であらわしました。水田だけでなく,米のとれない畑地,屋敷地さえも石高で生産高が定められて,年貢の対象となりました。水田が少なく,畑の多い相模原でしたが,46か村全体の石高は約2万石になりました。
相模原46か村検地状況
○相模原地域
○津久井地域(江戸時代初期は津久井領、元禄4年[1691]からは津久井県と呼ばれた)
畑の多かった相模原46か村
相模原46か村全体の石高は約2万石で,畑が耕地のほとんどを占めていました。水田は相模川や段丘中,下段に流れる中小河川沿いの田名,磯部,新戸,上溝,下溝,当麻村にそれぞれ20~30町程度しか見られません。あとは畑でした。相模原の村々の畑は生産性が低い「下畠」が多いのが特徴です。農民たちは麦・粟・ひえ・大豆・小豆・荏・大根など生産していました。年貢は水田については米で,畑については金銭で納めました。
きびしかった農民支配
相模原の農民たちは年貢の他にも原野からは「野年貢(のねんぐ)」,相模川沿いの村々には「川運上(かわうんじょう)」「川船役(かわぶねやく)」,御捉飼場(おとらいかいば)をひかえた村には「鷹御用(たかごよう)」,さらに,人夫を宿駅へ差し出さねばならない「助郷役(すけごうやく)」などの様々な負担が重くのしかかっていました。
幕府は「村々の百姓は生きぬよう,死なぬよう,年貢を納めさせる」ことを基本に厳しく農民を支配しました。
そのため,幕府は五人組制度をつくり,5軒前後を一組とし,組で協力して年貢を納めさせたり,組の中から法を犯すものがないように連帯責任を取らせました。
また,キリスト教を厳しく禁止するために宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)(現在の戸籍)を村々に作らせ,人々がどこの寺院に属しているかを明らかにさせ,出稼ぎや奉公で雇われるとき,結婚するときなどの証明としました。
上九沢村の宗門改五人組帳(しゅうもんあらためごにんぐみちょう)の冒頭には,農民の守るべききまりがこと細かく述べられていました。衣類については「百姓に至りては木綿布に限る」「相撲をとってはいけない」「酒をたしなむな」など生活のすみずみまで農民を規制していました。
宝永2(1705)年 上九沢村宗門改五人組帳
一、公儀(こうぎ)(幕府)より仰せ出されている御法度(ごはっと)の趣(おもむき)を堅く守れ。
一、キリシタン宗門については,以前より仰せ出されているように,いよいよ御制禁の事なので,御高札(ごこうさつ)の旨(むね)を心得よ。
一、父母に孝行をつくし,兄を敬い,弟をあわれみ,親類とむつまじくし,召使いには悪い事を申しつけぬようたしなめよ。
一、生きものは常にいたわれ。もし,鳥が落ちていたならば,念を入れて養育し,届け出よ。
一、家業を大切にして,耕作に精を入れ,時節(じせつ)に違(たが)わぬよう作業しなさい。もし,不精(ぶしょう)する者がいたならば,その身を追放し,田畑,家財などを村中で選び取らせる。
一、酒をいつも飲んではいけない。酒を好み,身体が衰弱するような事があれば,取調べの上,罪を申し渡す。酒に酔うことはなおさら戒めるものである。
一、風俗を取り乱してはいけない。百姓に似合わない男だてのかっこうをしたり,大脇差(おおわきさ)しなどをさすことがないように。
また,武芸はいうまでもなく,相撲なども取ってはいけない。
(中略)
一、衣類については,名主であっても紬(つむぎ),木綿以外は着てはいけない。
百姓に至っては,木綿布に限ること。
(中略)
一 高(たか)二石(こく)四斗(と)二升(しょう) 年53歳 惣右衛門(そうえもん)
禅宗当村梅宗寺旦那(だんな)
同寺旦那 江川左兵衛様御代官所
大嶋村十左衛門娘 48歳 女房
同寺旦那 私手前(わたくしてまえ)に罷在候(まかりありそうろう) 14歳 倅(せがれ) かま
同寺旦那 同断(どうだん) 17歳 娘 よし
同寺旦那 私手前に罷在候 7歳 倅 さん
人数 五人内 男三人
女二人
右は拙者(せっしゃ)家内ニ紛無御座候(まぎれなくござそうろう) 惣右衛門
(以下略)
宗門改五人組帳
これは「宗門改帳」と「五人組帳」を編成替えしたものです。特殊なもので「宗門人別改帳」とは異なります。
2 新田開発と耕地の増大
相模野の原野
江戸時代の相模原地域の中央部は「相模野(さがみの)」と呼ばれる雑草や雑木の茂る広大な原野でした。水利に乏しく,人々が居住するのをこばみつづけてきました。
江戸時代後期に編纂(へんさん)された『新編相模国風土記稿(しんぺんさがみのくにふどきこう)』には当時の相模野の様子を次のように記しています。
相模野の様子・・・『新編相模国風土記稿』
「一円の原野である・・・その大部分は草むらで,小松などがはえている所もある。野の形はちょうど,ひょうたんのようである。まわりの村々は,接している原野に自分の村の名前をつけて,たとえば,鶴間野,相原野などと呼んでいる。・・・・・・
そして,この原野の草を刈り取って「野永(のえい)」という税を出している」
相模野の面影を伝える(市庁舎付近 昭和31年)
相模野周辺36か村入会絵図
江戸時代の相模野は,広大な原野でした。この絵図は,元禄(げんろく)12年に作成されたものです。九沢野(くざわの)(9か村入会),溝野(みぞの)(3か村入会),座間野(ざまの)(9か村入会),木曽野(きその)(3か村入会),矢部野(やべの)(2か村入会),鵜野森野(うのもりの),谷口野(やぐちの),中和田野(なかわだの)等が入会野(いりあいの)として絵図に記載されています。
相模野の雑草は,田畑の堆肥(たいひ)や牛馬の飼料となりました。
また,萱(かや)は屋根ふき用として使われました。入会野(いりあいの)とは,村の共同使用の土地であって,個人的な使用は許されませんでした。(「相模野周辺36か村入会絵図」は市の指定文化財になっています。)
久保沢市と原宿市
戦国の争乱がおさまると,人々はより豊かな暮らしを求めて生産に励み,物資の交流を盛んにさせます。山地と平地の間にある川尻村(旧城山町域)は,山地の林産物と平地の生産物の交換の場所に適していました。津久井領出身の代官守屋佐太夫行広(もりやさだゆうゆきひろ)は,津久井全体の利益と川尻村の人々のためにもなると久保沢に市を開くよう命じました。1626(寛永(かんえい)3)年には31 件の家が並ぶ市場町が出現しました。その後,隣接する原宿にも原野を開拓し,境川から用水を引いて市を開き,1630(寛永7)年には34 軒の家が道の左右に並び,その背後には短冊の形に整然と区切られた畑が続く町ができました。
相模野の開発新田開発
17世紀も後半になると,相模野でも新田開発が始まります。
農民は少しでも生活を向上させようと苦労して荒れ地を少しずつ開墾しました。また,領主も年貢を増やすため,有力な農民や商人の協力を得て,新田の開発に力を入れました。こうして,江戸時代を通して,相模野の原野に上矢部新田,大沼(おおぬま)新田, 溝境(みぞさかい)新田,淵野辺新田,清兵衛(せいべえ)新田の5つの新田が開発されました。
相模野の新田・新開
上矢部新田
相模野で最初に開発されたのが上矢部新田です。寛文(かんぶん)から延宝(えんぽう)年間(1661~1680 年)のころ,江戸の豪商,相模屋助右衛門(すけえもん)が幕府の許可を得て始めたといわれています。
1684(貞享(じょうきょう)元)年の検地によると開発面積は193 町(192ha)余でしたが,大部分が芝しばの野とよばれる芝,松,萱の生い茂る原野のまま年貢の対象地とされており,畑はごくわずかでした。開発に従事し,新田内に家を構えた農民は16 名で,近隣の農家の次・三男が多かったといわれています。1673(寛文13)年に分地制限令(ぶんちせいげんれい)がでて,農民の持つ土地の分地が原則的には禁止されていたころなので,農民の次・三男対策にはタイミングがよかったわけです。しかし,開発された土地は,火山灰のやせ地でした。しかも,水の便が悪く,2㎞もある境川まで,水くみにいかなくてはならない状態でした。作物は大麦・小麦・そば・ひえ・粟(あわ)などですが,収穫は乏しく,農民はひえ・粟を常食としました。
上矢部新田村絵図
このような生活のなかで,土地を質に入れたり実家へ帰ってしまう者もいました。19 世紀の初めには,名主までが年貢の完納に責任がもてず,名主退役願(なぬしたいえきねがい)をたびたび出すほどでした。
そのようなことから,農民のなかには農業のかたわら,商いをするような者もいたようです。八王子道(はちおうじどう)などが人馬の往来(おうらい)でにぎわい始めると,道沿いに油屋・鍛冶(かじ)屋・木賃宿(きちんやど)・質屋・雑貨屋などが軒を並べ始めました。
相模屋助右衛門
助右衛門は,甲斐国(かいのくに)(山梨県)出身で江戸で豪商になったといわれます。甲斐と江戸を往来する際には,いつも甲州道中を利用せず,この地を通る八王子道を使っていたそうです。今の村富(むらとみ)神社(中央区矢部)のある所は,当時は森林で,小さな「やしろ」があり,旅人が泊ったりしていたそうです。
助右衛門も,ここで休み「このあたりに宿泊所があればよいのに」と思いました。これが上矢部新田を開発した理由だといわれています。
中央区矢部の村富神社
大沼新田
大沼(おおぬま)新田の開発は,1699(元禄(げんろく)12)年に始められ,1707(宝永(ほうえい)4)年には新田検地を受けています。
開発の中心となったのは木曽(きそ),根岸(ねぎし)村(町田市)で,淵野辺村の農民も多く参加しました。
土地の伝承によると,開発当初は,肥料を与えなくとも作物はできましたが,だんだん土地はやせてきて収穫は少なくなりました。そこで,農作物以外のものに頼らなければならず,養蚕(ようさん)・薪(まき)・炭づくりなどを始めました。薪炭材としては,主に,くぬぎ・ならを植林しましたが,土地がやせているため,自然に木の質が堅くなり,良質の炭がとれました。とれた薪炭は川崎の仲買問屋(なかがいとんや)に送られ,江戸で売られました。
溝境新田
溝境(みぞさかい)新田は,淵野辺村と上溝村の境にあることからこの名前がついたと言われています。現在の淵野辺駅の南,国道16号線付近にあって,上矢部新田村と接していました。1723(享保(きょうほう)8)年に約109町歩が検地を受けました。淵野辺村と町田の木曽村の共同開発でしたが,目的は従来の新田開発のような耕地の造成ではなく,芝原を切り開いて,なら・くぬぎを植林し,大沼新田のように薪炭の供給地にするところにあったようです。
淵野辺新田
淵野辺新田は,横浜線と溝境新田の間に位置し,淵野辺駅前の市立図書館や鹿沼公園は,この新田のなかにあたります。 1804(文化(ぶんか)元)年以来,淵野辺村はこの地の開発を願い出ていましたが,ここを淵野辺村とともに入会地(いりあいち)として使っていた木曽,根岸村(町田市)との話し合いがなかなかまとまりませんでした。
15年を経た,1818(文化15)年よりようやく開発が始まりました。これには前年,近隣の村々を廻(まわ)っていた最上徳内(もがみとくない)の協力があったからだといわれています。徳内は北海道・千島・樺太(からふと)などの探険で有名となった人物です。当時は八王子に居住し,幕府勘定方(かんじょうがた)の役人として,櫨(はぜ)・漆(うるし)の栽培を村々を廻って奨励していました。
相模野に自生する薬草・サイコ(柴胡)
相模野にはサイコという薬草が自生していて,冬になると,農民の中には,女子にサイコの根を掘らせて,生活の足しにすることもありました。
相模野に産するサイコは,ミシマサイコといわれ,その根は漢方薬の原料として,解熱(げねつ),鎮痛(ちんつう)などいろいろな症状に効いたといわれます。
サイコの多い相模野のことを「柴胡(さいこ)の原」ともよぶことがあります。
ミシマサイコ
セリ科の多年草。草丈は50~80センチくらいになります。茎は細くて堅く,よく枝分かれします。葉は細長く,やや白味を帯びた緑色です。黄色の小さな花をたくさん咲かせます。現在の相模原には野生のミシマサイコを見つけることはできません。
開発は八王子道にそって行われ,1826(文政(ぶんせい)9)年には16戸が入植し,1830(文政13)年には36 町余り,石高54 石余りが検地されました。薪炭材の植林と養蚕が盛んでした。
清兵衛新田
相模野最後の新田開発が,現在の相模原駅から清新・南橋本にかけて開発された清兵衛(せいべえ)新田です。この開発は,相模国全体からみても,幕末期における規模の大きな新田開発として注目されます。
この新田の開発を計画したのは,名前の通り,小山(おやま)村の豪農,原清兵衛です。
1843(天保(てんぽう)14)年,幕府より許可を得た清兵衛は,さっそく入植者を募りました。そして,入植者を比丘口(びくぐち)・矢掛(やがけ)・横山・原・大河原(おおがわら)の5組に分け,新田の鎮守(ちんじゅ),氷川(ひかわ)神社の社地を決めて,開発を始め,翌年にはほぼ終了しました。
開発地206町(ちょう)余りの内,清兵衛分が63町あったと記録されています。10年後には入植者も49名になりました。比丘口組は大部分,武蔵国出身ですが,他の4組はほとんど市域出身の農家の次・三男です。
作物は,そば・粟(あわ)・ひえ・大麦・小麦などを栽培しましたが,収穫が乏しく,生活は困難をきわめました。生活の苦しかったこととして,子どもが茶碗(ちゃわん)のなかの麦飯をみて「米粒が二つ重なっている」と珍しがったというような話も残っているほどです。従って,実家からの援助に頼ったり,せっかく苦労して開墾した土地を,質にいれ借金をしたりする家も多かったようです。
水がなくて,近くに実家をもつ者は,飲み水を手桶(ておけ)にいれて運ぶありさまでしたから,夕方,手足を洗えず「はたき洗足(せんぞく)」といって,手足の土をはたき落としただけで家に上がりました。
1872(明治(めいじ)5)年の戸籍には,当時の入植者の49 名のうち,24 名の名前しか残っていません。
「清兵衛新田」の名前は,1964(昭和39)年の住居表示によって「清新」となりました。「大河原」・「比丘口」・「矢掛」などの組名は,バス停や公園の名称として残されています。現在,横浜線相模原駅前は商店街やマンションが立ち並び,発展しています。
相模川の用水利用
現在,相模川沿いの沖積地(ちゅうせきち)の大島河原,中央区田名の望地(もうち),南区当麻,同磯部にはかなり広い水田地帯を見ることができますが,多くは昭和の土地改良事業によって開かれたものです。
しかし,江戸時代のころより,用水路を開き,水田が拡大されたたところもありました。当時の相模川はたびたび大はんらんを起こす大河で,用水路を建設するにはあまりにも大規模すぎました。しかし,流域の農民はこれに立ち向かって行きました。
当麻用水
当麻村の水田は,田名村堀之内(ほりのうち),塩田(しおだ)から流れてくる八瀬(やせ)川の流水を頼っていました。ところが,八瀬川の流水が少なく,水がかれることも多く,しばしば干害による作物の被害がありました。
明和(めいわ)年間(1764~1771年),当麻の関山通久(みちひさ)は,水の乏しいことをうれいて,相模川の水を引くための新堀(しんぼり)を開き,当麻村の水田を潤しました。新堀は当麻村と田名村の塩田との村境の坂下に圦樋(いりひ)を設けて相模川の水を引き入れました。
五か村用水
正徳(しょうとく)年間(1711~1715年)の絵図によると,磯部・新戸(相模原市)・座間・入谷(いりや)・新田宿(しんでんじゅく)(座間市)の五か村が相模川から水を引いた用水路を使用していたことがわかります。
相模川からの水の取り入れ口は,相模川がはんらんを起こしたり,流れを変えたりしたので,たびたび場所が変わりました。取り入れ口の圦樋(いりひ)は松や栗の木で作りましたが,ほぼ10年で朽(く)ちるため,作り替えられていたようです。また,洪水で破壊されることも多く,そのため,五か村の農民は作り替えのための補助金を役所に求めたりした様子が当時の記録に残されています。
磯部村絵図(正徳年間)
烏山用水
当時の中央区水郷田名付近には,滝地区の宗祐寺(そうゆうじ)下のわき水を利用した水田がわずかにあるだけでした。そこで,烏山藩(からすやまはん)は,相模川に沿って堤防を築き,用水路を開き,新たに田地を増やして,年貢の増収をはかろうとしました。
工事は,1858(安政(あんせい)5)年に始まり,翌年,完成しました。相模川の水を引き入れるための隧道(ずいどう)(トンネル)工事が最大の難関でした。ツルハシとノミを使って,滝集落下の堅い岩盤を切り抜きました。掘り出された土砂を取り除くため,途中に何か所も掘りだし口を設けなければなりませんでした。掘り抜いた隧道の全長は300間(けん)(540m)に及びました。
こうして,完成した用水路でしたが,翌年の1860(万延(まんえん)元)年には,大洪水のため堤防は崩れ,新田は砂に埋まってしまいました。
江成久兵衛の努力
久兵衛は,田名村久所(ぐぞ)に生まれ,12歳の時新戸(しんど)村に移り,後に江戸で奉公をしましたが,26歳で新戸にもどり,さらに田名村にもどって水車業を営んでいました。 田名の大水害の翌年,1860(万延元)年,久兵衛(きゅうべえ)43歳の時,彼は大水害によって,荒れはてた用水路,堤防,水田の修理を決意し,烏山藩の許可を得て工事を始めました。しかし,村の人々はさきの水害にこりて協力するものはなかったので,久兵衛は家財を投じて独力で工事を進めました。石ころだらけの田を改修し,土砂で埋まった隧道(ずいどう)と用水路を掘り下げました。そして,洪水に備えて,堤防を築きなおしました。堤防をつくる場所から,設計にいたるまで,さきの失敗を繰り返さないようにかなりの注意がはらわれました。
築堤事業は,1866(慶応(けいおう)2)年から1894(明治(めいじ)27)年の28年間にわたり,4つの堤防づくりに取り組みました。このため久兵衛は自分の一生をかけてこの事業に打ち込み,家財をほとんど使い果たしてしまいました。やがて,娘むこの重兵衛(じゅうべえ)や村の人々も協力するようになり,堤防を完成させることができました。
江成久兵衛
3 活発化する経済活動
蚕を第一にして
「私どもは,畑に桑を植え,蚕を第一にして繭を糸にくりあげる仕事をしてきました。この稼(かせ)ぎで,年貢諸役(しょやく)を納め,暮らしの食料の不足を補って生活してきました」
これは19世紀はじめに相模野,津久井,八王子周辺の農民たちが出した訴状の一部です。「蚕を第一にして」とあるように養蚕,糸くりの仕事がこの地方の暮らしの一般的な姿であったといえます。
水田の少ない畑作地帯の相模原の農民にとって,養蚕,生糸業は多額の現金収入をもたらしました。原野の中で麦,粟(あわ),ひえなどの雑穀の生産に頼るしかなかった農民たちの生活を大きく変えていきました。養蚕,製糸業の発展とともに,農民たちの様々な諸稼ぎが発展していきました。江戸時代の中・後期,相模原の農村地帯にも商品経済の大きな波がうちよせてきました。
養蚕の始まり
17世紀末から18世紀初頭の元禄(げんろく)文化のころより,武士,町人,富裕な農民たちの服に絹(きぬ)が用いられるようになって,わが国の絹織物業は上方(かみがた)の京都だけでなく,全国各地で発達してきます。
この頃,相模原に近い八王子も絹織物の町として有名になります。絹商人たちは農民に生糸を求めました。こうして,相模原にも養蚕・製糸業がしだいに発達するようになってきました。
1705(宝永(ほうえい)2)年の当麻村の記録によると,村中で「女の稼(かせ)ぎ」による養蚕,製糸業によって年に「100 両内外」の収入をあげていたとあります。さらに1728(享保(きょうほう)13)年の大島村の記録には「先年は300 両余にもなった」とあり,これは大島村の年貢の241両を上回る額になっています。また,田名村では1760(宝暦(ほうれき)10)年の記録に「550 両」もの収入をあげていたとあります。
現金収入の増加は農民の消費生活を豊かにし,大島村では,絹商人や蚕種(さんしゅ)商人,紺屋(こんや),小売り酒屋などの商家が27軒あったと伝えられています。
養蚕を行う農民『桑都日記』八王子市極楽寺蔵
『養蚕要略』
18世紀以降,農民の生活は「蚕を第一」とするようになってきましたが,領主にとっても年貢を確保するため,養蚕は重要なものとなってきました。
19世紀はじめ,下溝村などの領主である荻野山中藩(おぎのやまなか)は養蚕の仕方をことこまかく記した『養蚕要略(ようさんようりゃく)』という本を領内の村々に配布しました。
『養蚕要略』
『養蚕要略』は,蚕の特性,蚕種の基準,蚕種の貯蔵法から掃立(はきたて),初眠,二眠,三眠,四眠,上蔟(じょうぞく)に至るまでの取扱いをくわしく述べています。
養蚕要略 1805(文化2)年
・蚕は陽物にして,火を好み,水を悪(にく)むなり。それゆえ,暖暑の年は養いやすく,寒冷の年は養いにくい。雨の降り続くときはもっとも養いにくいので,よくよく心しておきなさい。
・蚕は4度の食盛りにはよく桑を食べるものである。それを普通にしか与えないと,桑足らずになり,上蔟してもよい繭を作らず,中下の繭しかできない。
・塩気,油気,煙草(たばこ),唐辛子(とうがらし),生大根,しょうが,ねぎ類はすべて蚕の毒である。そのようなものを扱ったときは,手をよく清めて,蚕の世話をしなければならない。
田名の江成家
中央区田名の江成銀蔵(えなりぎんぞう)家は,この村の名主を務めていた家ですが,大山道(おおやまみち)を往来する旅人や田名の渡しが増水で渡船できない客を宿泊させたりしていました。
1817(文化(ぶんか)14)年には445 人の旅人を,3年後の1820(文政(ぶんせい)3)年には,646 人の旅人を泊めていることから相当の収入があったと思われます。
さて,江成家の「万年帳」という記録によると, 生糸の販売も行っていたらしく,1794(寛政(かんせい)6)年以降の販売額は表の通りです。
この帳面には糸引き農家から集めた集荷糸「手前分(てまえぶん)」とある自家製糸,さらに「ちん引出す」という記載が,1811(文化8)年頃よりあることから小百姓層に賃金を支払って糸を引かせていたこともわかります。
このように,養蚕,製糸業が農民層に広がる背景として,相模原の農村の生糸を扱う商人の活躍がうかがわれます。
田名江成家の生糸販売額
上溝の巴屋
中央区上溝の巴屋幸蔵(ともえやこうぞう)という商人は周辺の農家から生糸を買い付けて,各地の織物業者や糸商人に販売していました。1836〜39(天保(てんぽう)7〜10)年の販売地域は,市内では自分のすむ上溝村から上相原・田名・下九沢村・津久井領,市外では愛甲郡,そして八王子など広範囲にわたりました。 その後,安政(あんせい)年間(1854〜1859 年)になると,生糸のほか,雑穀・塩・真綿(まわた)・種子などの仲買いもするようになります。さらに巴屋は注文によっては桑,竹,茅(かや)の仲買いまでするようになります。巴屋のような在郷(ざいごう)商人が相模原の農民の諸稼ぎを商品経済と結び付けていたといえます。
上溝巴屋の販売先
豪農の成長
養蚕を軸に発展する相模原の農村の中にも,19世紀になると経営に成功した農民が,豪農(ごうのう)に成長してきました。
上相原村の小川家は村一番の地主で,持ち高(だか)は1852(嘉永(かえい)5)年の11石(こく)余りから1862(文久(ぶんきゅう)3)年の16石余り,そして,1870(明治(めいじ)3)年には他村分も含めると田畑合計17町(ちょう)2反(たん)余りで67石余りまで増加しています。
小川家の『社稷準縄録(しゃしょくじゅんじょうろく)』には,毎年の農作物の種蒔きから収穫にいたるまでのことや,肥料の作り方,施し方などがこと細かく記録されています。こうした農業経営で小川家は豪農に成長していったといえます。
「村明細帳(むらめいさいちょう)」・「村鏡(むらかがみ)」・「御書上帳(おかきあげちょう)」などにみえる小商(こあきな)い,諸稼(しょかせ)ぎ
農民の諸稼ぎ
畑作地帯の相模原の村々では農間渡世(のうかんとせい)として養蚕,糸くり以外にも,様々な諸稼(しょかせ)ぎが行われ,農民の生活を支えていました。
18世紀の大島村では女の稼ぎとして養蚕が行われていましたが,男の稼ぎとしては抹香(まっこう)の製造・販売がありました。また,相模川では筏(いかだ)流しをやっているものもありました。19世紀の大沼新田,溝境(みぞさかい)新田,淵野辺新田では薪炭(しんたん)の製造が盛んでした。
前の表は,各村に残された「村明細帳(むらめいさいちょう)」「村鏡(むらかがみ)」など村の概要が書かれた記録から当時の農民が行った諸稼ぎや小商いをまとめたものです。
糸車
糸とり図『養蚕秘録』
交通網の発達
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの後,徳川家康は幕藩体制を維持するための諸策の一つとして江戸と各地を結ぶ五つの街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)を整備しました。
このうち相模原市を通っていた街道は甲州街道で,当時は甲州道中とよばれていました。
出発点の日本橋から甲府までの三十六宿,三十六里(約144㎞)は1604(慶長9)年に完成し,1610(慶長15)年には甲府から信州下諏訪まで延長され,新たに六宿,二十里(約80㎞)が追加されました。
幕府は街道の各地に関所を置き,鉄砲の出入りと大名の妻女が江戸から逃れることを防ぐ「入り鉄砲に出女」を方針として通行人を取り締まりました。取り締まりは男性には比較的寛大で,女性にはかなり厳しかったといわれています。
緑区小原にある小原宿(おばらじゅく)は甲州街道の江戸から数えて9番目の宿場で,本陣は信州の高島(たかしま)藩・高遠(たかとお)藩・飯田(いいだ)藩の大名と,甲府勤番の役人が利用していました。当時本陣は神奈川県下(東海道・甲州街道)で26軒ありましたが,現存しているのは小原宿本陣1軒だけです。
小原宿本陣をつとめた清水家の邸宅は「かながわの建築物100選」の一つとなっています。瓦屋根をのせた豪壮な門や,入母屋(いりもや)作りの建物14室の部屋が往時のままで残されています。
また,現在では毎年「甲州街道小原宿本陣祭」と称して,大名行列に扮(ふん)した人々が本陣を中心に国道20号線を練り歩きます。
一方,江戸時代は相模川も重要な交通網の一つで,上流と下流を結ぶ交易の川でした。
相模川の河川輸送には,筏(いかだ)による木材輸送と,高瀬舟(たかせぶね)による諸物資輸送が発達しました。高瀬舟では,津久井領の村々からは林産物・木炭等,中流の高座・愛甲郡の村々からは年貢米を積み,河口の須賀浦(すかのうら)(平塚市)まで運び,そこから海路,江戸その他へ運ばれました。
1657(明暦(めいれき)3)年には,俗(ぞく)に「振(ふ)り袖(そで)火事(かじ)」と言われる江戸の大火が発生し,江戸の町の6割以上を焼失しました。この復旧工事のための用材が各地に命じられ,津久井領や愛甲郡三増山からも相当の量をさしだし,筏に組まれて須賀浦まで流され,そこから江戸へ運ばれました。
江戸に到着した船は,帰りに水油,瀬戸物などの日用品や,干鰯(ほしか)などの肥料を積んできました。それらの荷物は,須賀浦で高瀬舟に積み替えられました。
船は,南風を扇の形の高い帆掛けいっぱいに受けて,さかのぼって行きました。
荒川番所
荒川番所(あらかわばんしょ)は江戸時代に津久井地方から出荷される薪まき・炭・木材等の商品に対し5分の1の運上(うんじょう)(税金)を取り立てた番所です。設置場所は津久井湖の湖底に水没した荒川橋付近で,相模川が大きく迂回(うかい)し,津久井への往来の道が一ヶ所に集中する陸路の要所でした。
荒川番所が太井(おおい)村に設置された時期ははっきりしていませんが,1664(寛文(かんぶん)4)年に久世広之(くぜひろゆき)が津久井領の領主となったころといわれています。その後番所の機能は,1873(明治(めいじ)6)年に廃止されるまで,200年以上も続きました。
4 相模原の農村文化
江戸時代の中・後期,農民の商業,経済活動が活発化してくるなかで,相模原と江戸を結ぶ街道の往来(おうらい)も多くなり,江戸の文化が相模原の農村地帯にももちこまれるようになります。相模原の農民も養蚕(ようさん)などの諸稼(しょかせ)ぎを通して少しずつ生活を向上させ,文学や学問に親しみ,農閑期には旅に出たり,また,様々な信仰,祭,年中行事をとりいれて,村の文化を作り上げていきました。
養蚕信仰
養蚕(ようさん)は多額の現金収入を農民にもたらしましたが,蚕(かいこ)は温度や湿度の変化に弱く,病気にかかりやすく,飼育が大変でした。養蚕に失敗して,借金を抱える農民が多かったのも事実です。そこで,農民たちはよい繭(まゆ)ができるように神仏の力にすがりました。
お蚕の神仏には,いくつかありますが,相模原で多くみられるのは茨城県筑波(つくば)の蚕影山(こかげざん)の信仰です。中央区田名の堀之内には蚕影(こかげ)社があり, 祠(ほこら)の中には養蚕の守神である金色姫(こんじきひめ)がまつられています。
田名蚕影社の金色姫
皇武神社蚕守神石塔
まゆ玉 中央区田名 篠崎源蔵氏宅
かしの木に,米で作った団子をさして,養蚕の豊作を祈願しました。
中央区淵野辺の皇武神社にまつわる「お絹様」は明治期には広く埼玉・群馬方面の農民にまで信仰されるようになっていました。
相模大野駅の近く,国道16号線と県道町田厚木線が交差する付近に山野蚕守稲荷(さんやかいこもりいなり)神社があります。この稲荷神社は,養蚕の守り神として祭られ,4月17日の「お題目」とよばれる祭日には,多くの参詣者が競って集まり,大変にぎわっていたと伝えられています。
旅の楽しみ
江戸時代の庶民の楽しみの一つは旅行でした。相模原の農民も仲間と連れだって旅に出ました。ただ,土地にしばりつけられた農民の旅行は厳しく制限され,公用のほか,社寺参詣(さんけい)と医療のための温泉だけが許されました。
[資料1][資料2][資料3][資料4]
それでも,農民たちはこれを理由に旅に出かけました。
秩父・坂東札所めぐり
淵野辺村には面白い記録が残っています。
淵野辺の女性達5人が,秩父巡礼(ちちぶじゅんれい)の旅に出ました。親類や知人からお餞別(せんべつ)をもらって,淵野辺村を出発したのは1843(天保(てんぽう)14)年2月22日のことでした。坂東(ばんどう)札所の吉見(よしみ)観音や岩殿(いわどの)観音に寄りながら5日目に秩父につき,さっそく秩父34か所の巡礼が始まりました。1日に16のお寺をまわった日もあり,9日目にはすべての札所(ふだしょ)をめぐり終えましたが,彼女たちは次には長野の善光寺(ぜんこうじ)に向かいます。善光寺の宿坊に泊まった次の日からはさらに日光東照宮へ向かい3月22日ようやく淵野辺村に帰ってきました。
30泊31日の長旅で,1日平均7~8里(30km前後)は歩いたようです。
通行手形
俳諧・草双紙
豪農の中には句会を催し,俳諧(はいかい)に親しんだものもいました。
18世紀中ごろの樹徳(じゅとく)(下溝村名主(なぬし),小山儀右衛門(ぎえもん),淵光(えんこう)(当麻村名主,関山宗右衛門通利(そうえもんみちとし)),19世紀中ごろの利り角かく(下九沢村名主,小泉茂兵衛(もへえ))などは,特に優れた俳句をよんだ人々です。樹徳は,俳句をよんだだけではなく,松尾芭蕉の『奥の細道』『笈(おい)の小文(こぶみ)』など十数冊を筆写していました。
また,利角は八王子千人同心(せんにんどうしん)(P.142,143参照)の一人であり,自宅に天然理心流(てんねんりしんりゅう)の道場を開き,農村の若者たちに剣術を指導した文武両道の人でした。
相模原の俳人
樹徳
日光東照宮に詣でる旅立ちの句
「末広き旅路や春の野の別れ」
箱根に遊びに行く途中,相模川を舟で下る
「百合に目を残して行くや下り舟」
樹徳
淵光
駿府(静岡)への旅の途中の句
「富士川や早瀬によえり下り鮎」
この旅から帰った時の句
「旅笠をぬげば麦まくころなれや」
利角
「椎(しい)の戸や昼の椿(つばき)の落ちる音」
女子や子どものための絵画本位の小説を草双紙といいます。表紙には,赤・黒・青・黄などの色をつけ,それぞれ「赤表紙(あかびょうし)」・「黄(き)表紙」などといわれました。
作者としては,仙客亭柏琳(せんきゃくていはくりん)がいます。柏琳は,磯部村の人で本名は荒井金次郎といいました。彼は「星下り梅の早咲」という題名の草双紙を書いたそうです。
寺子屋
相模原の農民の多くは,養蚕製糸,製炭,製茶,機織業などの諸稼ぎにたずさわっていました。
そのため,生活の必要上,読み・書き・そろばんの基礎的な能力を必要としました。農家の子どもたちは,6・7歳になると近くの寺院にある寺子屋に3〜4年間通うのが普通でしたが,女子の通学は少なかったようです。
教科書としては『実語教童子教(じつごきょうどうじきょう)』・『庭訓往来(ていきんおうらい)』・『女今川(おんないまがわ)』などが使われました。『実語教童子教』には「いろは」「九九」などがあり,この本一冊でいろいろな学習ができるようになっていました。
相模原地域で寺子屋のおかれた寺社
蘭方医の活躍[資料1][資料2]
河津省庵(かわづしょうあん)
省庵は,上相原村の代々医業を営む家に生まれ,成人して漢方,蘭方(らんぽう)の医学を学びました。 1823(文政6)年長崎留学のおり,長崎に来ていたオランダのシーボルトに出会い,教えをうけました。省庵は天然痘(てんねんとう)の予防接種なども行ったすぐれた人で,後に忍藩(おしはん)(埼玉県行田市)の藩主松平氏の侍医に召しかかえられています。
河津省庵と医療器具
伊東方成(いとうほうせい)
上溝村の医師の子として生まれました。幕末の1862(文久2)年,日本最初の留学生として,オランダで医学を学びました。 帰国後,明治天皇の侍医となりました。
名僧 南山古梁
相模原の生んだ名僧に,南山古梁(なんざんこりょう)がいます。古梁は,上九沢村の名主(なぬし)笹野(ささの)氏の次男として生まれました。江戸の寺院で修行中,仙台藩主・伊達重村(だてしげむら)に見こまれて,1793(寛政5)年,仙台に招かれて瑞鳳寺(ずいほうじ)の住職になりました。また,仙台藩の顧問格として,政治に参加するようになりました。
南山古梁
遠く仙台にあった南山ですが,郷里の父母を忘れることはありませんでした。上九沢の梅宗寺(ばいそうじ)は顕彰碑が建てられています。
南山は学問・詩にも理解が深かったといわれています。著書も多く,詩2,000首,文400編と言われ,なかでも松島を歌った五言絶句(ごごんぜっく)は古来絶唱といわれています。
南山禅師顕彰碑(緑区上九沢梅宗寺)
民俗芸能
江戸時代から現在に伝わる民俗芸能として,相模原市内には緑区下九沢御嶽(みたけ)神社・大島諏訪(すわ)明神・鳥屋諏訪神社の獅子舞があります。
それぞれ江戸時代から人々の間で受け継がれてきた貴重な民俗芸能で神奈川県の無形民俗文化財に指定されています。いずれも文化文政年間(1804〜1829年頃)に奥多摩地方から伝承されたものと伝えられていますが,現在8月下旬に挙行される御嶽神社・諏訪神社祭礼における獅子舞の手振りの様子を見ていると,江戸舞踊の要素が含まれていることがわかります。
また,田名八幡宮の的祭(まとまち)も元禄の頃から続く行事です(鎌倉時代という説もあります)。毎年1月6日に田名八幡宮で奉納され,ヨシを編んで作った直径1m80㎝ほどの的を, 袴(はかま)姿の幼い射手が桃の木の矢(現在は榎(えのき))で射ってその年の豊凶を占う神事です。これは相模原市の無形民俗文化財に指定されています。
鳥屋の獅子舞
緑区鳥屋(とや)地区の諏訪神社で,夏の祭礼に奉納される獅子舞は,約300年前の江戸時代初期,鳥屋の清真寺(せいしんじ)の10世住職・円海法師が鳥屋の祭礼に祭事芸能がないのを淋しく思い,当時武州地方(現東京都・埼玉県・川崎市・横浜市の一部)で行われていた獅子舞を模倣して起こしたものといわれています。
獅子は「一人立ち三頭獅子」で,父獅子,母獅子,子獅子と呼ばれる三頭の獅子を,白衣に白股引(しろももひ)き,白の手甲(てっこう),白の足袋(たび)を身に着けた三人の地区の若者が演じます。
獅子頭は,上州(現群馬県),信州(現長野県),秩父地方に多い竜頭(りゅうず)型という様式で,神奈川県内には他に例を見ないといわれています。全体的に扁平で細長く,ギョロとした目玉と大きな鼻の穴が特徴の頭(かしら)で,円海法師自らが刀をとり自ら彫ったものと伝えられ,別名重箱獅子とも呼ばれています。鳥屋の獅子舞は300年以上の歴史があり,鳥屋に住む人々によって長い間受け継がれてきた大切な伝統文化です。
昭和29年「神奈川県無形文化財」, 昭和51年「神奈川県無形民俗文化財」に指定がえ(平成19年「相模原市登録無形民俗文化財)。
5 幕末期の相模原
窮乏する領主
農民たちが養蚕をはじめとする諸稼(しょかせ)ぎで生活を向上しつつあったころ,幕府・藩・旗本などの領主階級の財政は窮乏(きゅうぼう)化するばかりでした。商品経済の発達のなかで武士の生活はぜいたくになり,物価の上昇がさらに出費を多くさせました。
田名,大島村などの領主である烏山藩(からすやまはん)では,1836(天保(てんぽう)7)年の借金が34,000 両にも達していました。
また,荻野山中藩では,財政難から1852(嘉永(かえい)4)年に成川検校(けんぎょう)という江戸の人物から3,000両,厚木の商人から2,500両もの大金を借金したと記録に残っています。
旗本たちの財政は大名よりもさらに苦しいものでした。
右の古文書は,1863(文久3)年,上溝村の領主の一人,旗本石野(いしの)氏が上溝村に与えた下知書(げちしょ)です。この下知書では,石野家の財政が苦しくなったので,本来12月に納める年貢を先納してほしいと申し渡しています。
石野氏下知書
このような年貢の先取りは,石野氏に限らず,江戸時代末期には,旗本はもちろん,大名をふくめて,領主の一般的な姿で,何年も先の年貢まで先取りすることもありました。
農民の抵抗
1831(天保2)年12月,上相原村藤沢領の農民たちは領主の悪政に対して立ち上がりました。藤沢氏の家臣,平山左次右衛門(さじえもん)というものが橋本村に来て,上相原村などの知行地に5年間にわたり総額1,500 両もの「御用金(ごようきん)」をかけてきたからです。
上相原村の農民たちは,津久井県上川尻村とともに,翌年1月には藤沢氏にこれを訴えましたが取り上げられず,2月には勘定奉行(かんじょうぶぎょう)に駕籠訴(かごそ)を行い,続いて3月には老中にも駕籠訴,目付に駆込(かけこ)み訴えを行いました。駕籠訴とは幕府の重役である老中や奉行の通行中の行列に訴状を差し出すことです。また,駆込み訴えとは,決められた順序をとおさず直接重役に訴えることで,どちらも厳禁され獄門(ごくもん)などの極刑を覚悟しなければならないことでした。11月には勘定奉行のもとで取り調べが行われ,上川尻村では118名,上相原村では38名の農民が進んでこの訴訟に参加しました。
1833 年(天保4)年5月,争論の結果「御用金」は中止となり,平山氏も職を解かれ,農民側の勝利となりました。しかし,その間に訴訟責任者の4名は江戸の牢屋につながれてしまい,武兵衛(ぶべえ),庄次郎(しょうじろう),茂兵衛(もへえ)の3名は病死してしまいました。
八郎右衛門の訴え
飢饉のあった天明(てんめい)年間(1785 年頃),領主のきびしい年貢の取りたてに怒った田名の農民は,名主八郎右衛門(はちろうえもん)を先頭に立てて,江戸の烏山藩邸におしかけ,用人の谷土地兵衛(たにとちべえ)(登次兵衛(とじべえ))の悪政を訴えました。
そのとき,同志の人々は麦こがしの弁当を持参しました。それは村の窮乏を示すと同時に,こぼすと畳の目にはいりこみ,あとで始末に困るので,それがねらいのいやがらせもありました。
徒党を組んで押しかけたというので,農民たちは召し捕らえられ,お白州(しらす)(奉行所などの訴訟機関の法廷が置かれた場所)で取り調べを受けました。そのとき,八郎右衛門は奉行に対して,平伏せず,頭をあげたままだったので,役人は「八郎右衛門,頭(ず)が高い」 と叱りつけましたが,八郎右衛門は平然として「私は年老いまして,耳が遠うございます。それで奉行様の大切なお言葉を聞きもらしては大変と思い,頭をあげさしていただいているのでございます。どうぞ,このままでお許しおきくださいますようお願い申し上げます」と言ったので,そのままでさしおかれることになりました。
吟味(ぎんみ)の結果,八郎右衛門は許されて帰村しました。一方,谷土地兵衛は責任を取り切腹したと言われています。
中央区田名の堀之内には,烏山藩の高札場の跡が残されています。
黒船来航と相模原
1853(嘉永6)年6月,アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻をひいて三浦半島の浦賀沖にあらわれて,幕府に開港をせまりました。
この黒船の来航は,太平の世に慣れ親しんでいた人々を大いに驚かせました。相模原の農村地帯は直接騒ぎにまきこまれることはありませんでしたが,助郷(すけごう)として人夫をだすことが多くなり,たいへん困りました。
このとき,市域の烏山藩領の村々からは15〜60歳の男子が集められました。田名村から40人をはじめとして,大島,小山,上矢部,淵野辺,上矢部新田,上溝,下溝など8か村から合計84人がだされ,厚木の陣屋(じんや)に24人,江戸の藩邸(はんてい)に60人が警備のために送られました。
1858(安政(あんせい)5)年の日米修好通商条約によって,横浜が開港されました。それとともに,国内の攘夷(じょうい)運動が激しくなり浪人たちの「夷人(いじん)斬り」が横行しました。とくに横浜は幕府によって厳戒体制が引かれ,さらに監視網の強化のため,相模一円20か所に見張り番屋が建てられました。相模原でも田名,当麻,橋本村に見張(みは)り番屋が建てられ,最寄りの村から人足を出して,警備にあたりました。
1862(文久2)年3月,外国人4人が馬に乗って橋本村にあらわれたので,村人ははじめてみる外国人の姿に驚きました。
八王子千人同心
武士階級の生活が苦しくなってきた19 世紀には,相模原の豪農の中には学問や剣術のけいこに精を出し,やがて「八王子千人同心株(はちおうじせんにんどうしんかぶ)」を買い入れて,幕府に仕える武士身分となるものもいました。彼らは,やがて,幕末の動乱にまきこまれていくことになります。
1833(天保4)年の記録によれば,淵野辺村の小川彦右衛門(ひこえもん),上溝村の佐藤権右衛門(ごんえもん),下九沢村の小泉茂兵衛(もへえ),橋本村の牛久保正助(うしくぼしょうすけ),小山村の萩原(岡本)武右衛門(たけえもん)ら,5名が千人同心として名前を連ねています。
津久井地域では,与瀬村の峯尾国次郎(みねおくにじろう)・井上庄吉(いのうえしょうきち),佐野川村の清水彦六郎(しみずひころくろう)・鈴木源次郎(すずきげんじろう),若柳村の榎本六兵衛(えのもとろくべえ)・稲原新左衛門(いなはらしんざえもん),三井村の小野沢勘次郎(おのざわかんじろう),上川尻村の八 木熊三郎(やぎくまさぶろう)・神田民右衛門(かんだたみえもん)・細谷分平(ほそやぶんぺい),中沢村の風祭貞助(かざまつりじょうすけ)の11人が1854(嘉永7)年の調査によって確認されています。
千人同心の仕事は八王子の警備,日光東照宮の警番などがありましたが,ふだんは農業にいそしむ半農半士の生活をしていました。
1863(文久3)年の将軍家茂(いえもち)の上洛,1865(慶応元)年の第2次長州戦争などに相模原の千人同心が従軍したときの貴重な記録が残されています。
八王子千人同心
小泉茂兵衛
八王子市街を東西に走る,甲州街道に沿った一角には「千人町」という街並みがあります。ここは,江戸時代,千人同心という幕府家臣団の一組織に幕府から貸与された,拝領屋敷(はいりょうやしき)や組屋敷が建ち並んでいた武家屋敷でした。明治維新とともに,これらの屋敷は明け渡され,しだいにその景観を失い,現在ではその面影は残っていません。
千人同心の母体となったのは,甲斐武田氏の小人頭(こびとがしら)に率いられた軍事集団でした。1582(天正10)年,武田氏が滅ぼされると,徳川家康の配下となり,1590(天正18)年,家康が関東の領主になると,甲斐国境を警備する目的で八王子に移されたと伝えられています。それ以来,278年間,明治維新により解体するまで,その本拠地は,八王子から移転することはありませんでした。
武田時代の小人頭(のちの千人頭)は9人で,甲斐と他国を結ぶ九筋の道筋奉行(みちすじぶぎょう)として,国境警備を主な任務としていました。その支配下の小人(のちの同心)は,約250名といわれています。天正18年,落城した八王子城下に駐屯(ちゅうとん)し,治安の維持や警備にあたりました。
徳川幕府の安定とともに,組織も整備され,頭を10人とし,関ヶ原の戦の前年,1599(慶長4)年には,同心を千人に増やし,文字どおり千人同心の組織が成立しました。
千人同心は,八王子宿の西はずれに建設された,千人町の組屋敷に90人ほどが住み,残りの同心は,八王子周辺の村々に住んでいました。幕府から命じられた公務を勤める時以外は,農民と同じ生活をしていたのです。武士は城下町に住み,農耕とは無縁であった江戸時代に,成立から解体するまで,兵農未分離(へいのうみぶんり)のままの組織を維持してきた,特異な存在でした。
小山村 萩原(岡本)安右衛門の長州征伐従軍日記から
1865(慶応元)年5月9日,萩原(岡本)安右衛門(やすえもん)は,千人同心「砲隊(ほうたい)」300人の一人として,第二次長州征討軍に従軍するために小山村を出発しました。幕府の命に従わず,攘夷を続ける長州藩(山口県)と戦うためです。
安右衛門は,この日から翌年の11月までの約1年半を他郷で過ごすことになります。 安右衛門は,八王子で千人隊と合流し,江戸から大坂に着いたのが翌月の10日。千人隊は大坂で1年近く,将軍の警備の任につきますが,当時53歳であった安右衛門は2か月ほど病の床についてしまいます。
その後,翌年の6月から7月にかけて千人隊は九州小倉(こくら)で長州藩との戦に参加しています。安右衛門ら千人隊の任務は幕府軍総督小笠原壱岐守(いきのかみ)の警護であったため,直接戦に加わることはなかったようです。
しかし,安右衛門の日記には「夜明け方に長州勢から大砲を打ってきて,赤坂村で戦になり,幕府方の小倉勢が負けた。延命寺裏山で午前6時から午後3時まで長州勢と肥後(ひご)勢が打ち合って,長州勢が負け,死体を16残して逃げた」など戦の様子がくわしく記されています。
戦は,大坂城にいた将軍家茂の急死により,幕府軍は解散し,長州藩の勝利となりました。千人隊も7月30日の夜解散となり,安右衛門は身一つで小倉を脱出して,四国の松山で時が落ちつくのを待って,大坂から小山村に帰郷しました。 その後,安右衛門は,翌年の1867(慶応3)年11月から1か月間,横浜警備に出動し,12月には荻野山中藩(厚木)をおそった賊徒取りおさえのため八王子に出動しています。 1868(慶応4)年3月,新政府軍が八王子に進駐し,同年6月千人隊は解散しました。初老の安右衛門は農業だけの生活にもどり,明治維新を迎えました。
安右衛門の日記
日記には,長州征伐,将軍上洛警備,日光警番などがあります。
「歩いてみよう」むかしからの道
相模原市では,地名保存事業として,昔からの道,坂,川などについて,およそ100本の「地名標柱(ひょうちゅう)」が設置されています。「地名標柱」とは,その土地の地名とその由来が書かれたもので,昭和60年代から,平成元年にかけて設置されたものがほとんどです。
「大山道(みち)」[資料1][資料2]
左の写真が緑区橋本2丁目にある「大山道」の標柱で,平成元年3月に建てられたものです。解説文にはこんな記述が書かれています。
「大山参りの人がよく利用した道だったのでこの名があります。また,埼玉往還,八王子道などとも呼ばれ,橋本はこの宿場としてもにぎわいました」
その大山は昔から信仰の場として人々にあがめられ,多くの信者が県内外から訪れ,行き交いました。大山参りの人たちが通ったとされる道が「大山道」です。「大山道」を示す標柱は写真のものだけでなく,緑区下九沢のバス停そばの鳩川沿い,作の口小学校の下の国道沿い,番田駅近くの田尻に,また,南区若松3丁目の若松小学校前にも立っています。どうやら「大山道」は緑区橋本で二手に分かれて,鳩川をわたり,中央区田名の久所(水郷田名)に抜け,渡し船で相模川を渡るコース及び,中央区上溝を抜け,南区当麻に向かうコースと,他に南区西・東大沼から南区若松を抜け磯部へ抜けるコースなどがあったようです。
「大山道」と書かれた「地名標柱」を探し,歩いてみよう
山岳信仰の対象である不動明王像(ふどうみょうおう)を見つけてみよう
「鎌倉道」と「当麻山道」
「鎌倉道」はもちろん,鎌倉時代に幕府のおかれた鎌倉に通じる道で「鎌倉街道」と呼ばれることもあります。これは相模原だけでなく,関東地方や中部地方の多くの地域に同名の道が残っているわけですが,相模原にも境川沿いにその名が残された道があります。「鎌倉道」を示す標柱は南区市営古淵住宅北側の境川沿い,同鵜野森鹿島公園内,同上鶴間中和田の天神上公園内,同上鶴間高校南側200mほどの場所に設置されています。また,標柱はありませんが,緑区橋本の瑞光寺の竹林に沿った小道もその一部といわれています。
「当麻山道」はもちろん南区当麻にある「無量光寺」をめざす道で,中央区淵野辺の龍像寺方面からの南区大野台を通り,淵野辺公園沿いを南区下溝に抜けた道と津久井地域から緑区大島方面を抜け,中央区田名(たな)四ツ谷(よつや)を通って当麻に向かう道があったようです。「当麻山道」の標柱は,亀ケ池八幡宮の南を南東に走る道沿い「上溝新開(かみみぞしんかい)」バス停脇にあります。標柱の解説文によると,この道が村の境だったので「境道」とも呼ばれていたそうです。
「鎌倉道」「当麻山道」と書かれた「地名標柱」を探してみよう
「鎌倉道」「当麻山道」を歩いてみよう
あなたの家の近くの「地名標柱」を探し,その解説を読み,その由来を考えてみよう
第7章 近代相模原の歩み
軍事色の強まり(出征する兵士を見送る人々)1940(昭和15)年
江戸幕府が倒れ,明治期に入ると,つぎつぎに新しい改革が行われ, 中央線や横浜線の開通によって相模原の社会情勢も変わってきました。大正期には,県立中等学校が設置され,上溝町が誕生しました。昭和に入ると,私鉄が開通し,軍関係施設の移転によって軍事色を濃くしていきました。
1 明治の新政と相模原
新しい制度・新しい政治
1868(慶応4)年1月から始まった幕府軍と新政府軍との戦い(戊辰(ぼしん)戦争)は翌年5月に新政府軍の勝利で終わりました。新政府は,天皇を中心とした強い国家を作るために,日本の近代化の必要性を感じ,いろいろな制度の改革にのりだしました。
私たちの住んでいる相模原では,これらの改革はどのように行われたのでしょうか。
幕末の相模原には47の村があり,しかも,幕府の幕領・旗本領や藩領などに分かれて支配されていました。1871(明治4)年の廃藩置県により,47の村は神奈川県に属することになりました。このころの神奈川県は,現在の神奈川県のほかに東京都の多摩地方がふくまれていました。
1872(明治5)年には,村の名主を廃止して,新しく戸長を置き,村民の戸籍や土地などの仕事を行わせました。
政府は,国民の間に憲法と議会を求める声が高まったので,1878(明治11)年「府県会規則」を作りました。翌年,神奈川県議会が開かれました。最初の県議会議員として下九沢村の山本作左衛門(やまもとさくざえもん),相原村の神藤利八(しんどうりはち),吉野宿の吉野十郎(よしのじゅうろう),日連(ひづれ)村の山崎三右衛門(やまざきさんえもん)が選出されています。1880(明治13)年には「区町村会法」が制定され,相模原の村々の中にも村議会をもつ村ができました。
1889(明治22)年には,市制・町村制が実施され,これにより相模原の47の村々は,31にまとめられました。
江戸幕府が倒れ,新政府が成立したので,従来の重い年貢からまぬがれるものと多くの農民が期待しました。しかし,1873(明治6)年から実施された地租改正により,かえって農民の負担は増加しました。地租は,地価の3%を現金で土地所有者に納めさせるものでした。右の写真は土地所有者にわたされた証書で,地券とよばれます。その後,全国各地で地租改正に反対する暴動が起こったため,政府は,地租を地価の2.5%に引き下げました。
地券
明治・大正期の相模原・津久井地域の町村
小原…明治22年の町村制施行の時より町。
与瀬・吉野…この二つは駅。大正2年に二駅とも町制を施行し,町へ。
串川…明治42年に青山・長竹・根小屋の三村が合併により誕生。
中野…大正14年に村から町へ。さらに太井・又野・三ヶ木の三村が中野町と合併。
溝…大正15年に村から町へ。
相模原の自由民権運動
1874(明治7)年,板垣退助らは政府に民撰議院設立建白書を提出しました。これは,国民の代表による議会を開くことを要求したものです。この運動はたちまち全国に広がっていきました。
相模原では,山本作左衛門(やまもとさくざえもん),神藤利八(しんどうりはち)らの活躍が注目されます。1880(明治13)年6月7日,神奈川県の559町村の23,555名の人民の代表として,14名が元老院議長あてに国会開設についての意見書を提出しました。14名の筆頭は山本作左衛門(当時31歳)であり,神藤利八(当時34歳)の名も見えます。
また,太井(おおい)村の梶野敬三(かじのけいぞう)(当時27歳)もこの意見書に名を連ねており,梶野は後(明治15年)に自由党に入党しています。この意見書の提出にあたり,山本や神藤らは,板垣退助をつれてきて,淵野辺村の鈴木理平の家に泊めたといわれています。また,1881(明治14)年1月30日,原町田の本吉田屋で石阪昌孝(いしざかまさたか)(町田市)らの呼びかけで「武相懇親会(ぶそうこんしんかい)」が開かれ,政治に関心をもつ人々約300名が集まりました。記録によると相模原からの参加は山本・神藤ら28名でした。
山本作左衛門(幕末と明治前期)
その後,相模原や多摩地方で,盛んに演説会や懇談会が開かれました。
山本や神藤は高座郡に相国(しょうこく)社という団体をつくり,活動しましたが,同年8月に神藤利八は土蔵の中で怪死しました。35歳でした。
同年,原町田に自由民権運動の団体である融貫(ゆうかん)社がつくられました。相模原からは,この団体の中心メンバーでもあった山本作左衛門が参加しています。中央には自由党が結成され,いわゆる自由民権運動が大きな盛り上がりをみせた時期です。
町田を含む多摩地方や相模原は自由民権運動の先進地域であり,その後各地で演説会が開かれています。山本作左衛門は,下九沢村に生まれ,1879(明治12)年の第1回県議会議員選挙に29 歳で当選しました。以来4期連続当選をし,神藤利八とともに相模原の民権運動の中心となって活躍しました。しかし,山本作左衛門もまた39 歳で1886(明治19)年3月に病死しています。神藤利八も,山本作左衛門も,郷土にとってはかけがえのない指導者でした。
困窮する農民
明治10年代,西南戦争によるインフレーション克服のため,明治政府は極端な財政緊縮政策を強行しました。この政策は,農民に増税と農作物の価格暴落をもたらしました。田畑などを抵当(ていとう)に高利の借金で何とか切り抜けていた農民を待っていたのは一層進む不況でした。とくに,相模原・町田などを中心とする武相(ぶそう)地域は大きな収入源の生糸の価格の暴落や,農産物の不作,相つぐ台風の被害などで借金は増えるばかりでした。
武相・津久井 困民党事件
これまでは金を貸すのは村内の有力者で,個人的に行っており,返済にも何とか便宜(べんぎ)がはかられていました。しかし,この時期にたくさん設立されていた私立銀行や金融会社は,利益を追求する会社規則で運営されていました。抵当(ていとう)は公売(こうばい)処分にされ,小作や身代(しんだい)限り(破産)になる農民が後をたちませんでした。借金の返済条件の緩和や利子の引き下げを求める農民集団が各地に結集され,組織的な運動が行われました。
相模原地域・町田などを中心とする武相(ぶそう)地域でも1884(明治17)年7月30日,上鶴間村の負債農民300名ほどが谷口(やぐち)の青柳寺(せいりゅうじ)にひそかに集まり,借金の返済方法について協議しました。そして,8月10日には武相地域の負債農民数千人が御殿峠(ごてんとうげ)に集合しました。農民たちは借金返済の延期を求め,八王子めがけて押しかけようとしましたが,警察の説諭により大部分が11日未明に解散しました。
困民党の人々の集結地御殿峠
ついで14日から17日にかけて津久井地域や南多摩郡の農民約300名が七国峠(ななこくとうげ)・高尾山に集合し,津久井郡役所や八王子の銀行・金貸し会社へ押しかけました。
また,津久井郡寸沢嵐(すあらし)村ほか七か村の負債農民(困民党)500〜600名は,三井(みい)村の古寺に集結し,そのうち100名余りが津久井郡役所に借金返済の延期などを懇願しました。翌日には1,000名余りが八王子方面に押し寄せましたが,八王子警察や津久井郡内の新旧戸長などが説得にあたったので,農民たちは中沢村の普門(ふもん)寺へと引き揚げました。
このような農民たちの窮状(きゅうじょう)を見た地域の有力者24名が銀行・金貸し会社へかけあって,農民たちの暴動化を防ごうとしました。この仲裁(ちゅうさい)メンバーは,ほとんどが新旧戸長や県会議員らで,そのうち石阪昌孝(いしざかまさたか)・山本作左衛門(やまもとさくざえもん)ら自由党の幹部が8名いました。これら仲裁人に共通している点は,彼ら自身もまた不況のために財産を失い,没落(ぼつらく)しつつある豪農層(ごうのうそう)であったことです。銀行の頭取(とうどり)や大口株主(おおぐちかぶぬし)の中には自由党員がたくさんいましたので,それを頼みにしての交渉でしたが,結果は予想に反して冷淡(れいたん)なものでした。このため仲裁人も仲裁から手を引くことになりました。
1884(明治17)年11月19日臨時総会で,正式に武相困民党(ぶそうこんみんとう)が結成されました。その後幹部が県令に陳情(ちんじょう)しましたが,聞き入れられなかったばかりか直ちに解散するように命じられました。農民たちは翌年1月14日大沼新田に集合し,神奈川県庁めざして行動を開始しましたが,途中で警察隊に解散させられ,指導者はすべて逮捕され,困民党の農民は無念の涙を流しました。
訪ねてみよう「当時ここに集まった人々の気持ちや思いを考えてみよう」
山本作左衛門の功績をたたえた碑が,緑区下九沢の金泉寺(こんせんじ)境内(けいだい)に建てられています。碑文は民権派の衆議院議員の町田の石阪昌孝が書いています。
山本作左衛門の碑
南区上鶴間本町3丁目の青柳寺(せいりゅうじ)の境内には「武相困民党発祥(はっしょう)の地」の碑があります。借金に苦しんだ農民たちが,返済方法について相談するためここに集結し,その後の活動のスタートとなりました。今でこそ市街地になっていますが,当時はひそかに集結するのに都合の良い相模野の林でした。
武相困民党発祥の地の碑
近代教育制度の発足
政府は近代的な教育制度を作るために,1872(明治5)年に学制を定め,全国に小学校を作り,国民だれもが学校教育を受けることができるようにする方針を明らかにしました。
学校を作るにあたっては国や県からの補助金は全くなく,すべて村民の負担で行われました。そのため,村民は校舎の建設に消極的でした。お寺や今まで行われていた私塾(しじゅく)などの建物を使用しました。
相模原では,下の様な学校が各地につくられ,学舎とよばれていましたが,1875(明治8)年6月の神奈川県の布達(ふたつ)により,学校と改称(かいしょう)することになりました。
学制発布当時の校名( )内は県布達による変更後の名称
○西鶴(さいかく)学舎(谷口学校上鶴間分校)○淵博(えんはく)学舎(淵野辺学校)○益進(えきしん)学舎(相原学校)
○本然(ほんねん)学舎(橋本学校) ○養麟(ようりん)学舎(小山学校) ○九明(きゅうめい)学舎・内出(うちで)学舎(九沢学校)
○高原(こうげん)学舎(大島学校) ○蕃典(ばんてん)学舎(番田学校) ○玄溝(げんこう)学舎(上溝学校) ○覚明(かくめい)学舎(田名学校)
○亀形(きぎょう)学舎(当麻学校) ○言志(げんし)学舎(下溝学校) ○日新(にっしん)学舎(磯部学校・新戸学校)
○(葉山島学校) ○(川尻学校) ○(中沢学校) ○(小倉学校)
下等小学は6歳から9歳まで,上等小学は10 歳から13 歳までで,合わせて8年間でした。しかし,授業料を払わなければならず,義務教育ではなかったので,8〜9歳で入学する者もあり,途中でやめる者もいました。とくに上等小学へ進む者や女子の入学者は少なかったそうです。
生徒は,進級試験に合格しないと進級できませんでした。
また,飛び級といって,二つ上の級の試験に合格すれば,一つ学年を飛んで進級することもできました。試験は,春と秋の2回あり,郡役所から役人が来て行いました。成績の良い者には賞状と賞金が与えられるかわりに,成績の悪い生徒は呼び出されて,注意を受けるようになっていました。試験科目は,読書,習字,算術(算数),地理,歴史,修身(しゅうしん)(道徳)の6科目でした。
進級証書
近代的水道施設の始まり
戸数わずか87 戸ほどの小さな村であった横浜は,幕末の開港以来人口が急増し,市街は急激に発展しました。
当時住民は水を求めて井戸を掘りましたが,横浜は海を埋め立てて拡張してきたので良質な水に恵まれず,ほとんどの井戸水は塩分を含み,飲み水には適しませんでした。
このため,神奈川県は英国軍将校で技師のH.S.パーマーを顧問として迎えて,近代的水道建設に取りかかりました。パーマーは水質・水量など様々な状況から,横浜近隣の川でなく,遠く相模川の上流に水源を求め,1885(明治18)年近代水道の建設に着手しました。
そして三井(みい)村(現在の緑区三井)から横浜に伸びる横浜水道[資料1][資料2]をつくり,1887(明治20)年9月に完成しました。
相模原市にある水道路(すいどうみち)と呼ばれる緑道は,明治以降その地下に大きな水道管が走っている道で,現在は花や木が植えられ,ベンチなども置かれた憩(いこ)いの場にもなっています。
1985(昭和60)年,厚生省(現在の厚生労働省)の企画により歴史的価値の高い水道施設を後世(こうせい)に伝えるため「近代水道百選」が選定されました。横浜市の水道施設では緑区青山の「旧三井用水取入口」「旧青山取入口と沈(ちん)でん池」「城山ずい道」の3か所が選ばれています。
噴水塔(複製)津久井中央公民館 ※横浜水道の完成を記念して横浜に造られた噴水塔の複製。横浜市より寄贈。
日清・日露戦争と相模原
わが国は,1890 年代に入ると政治制度も整い,また,軽工業を中心に産業が発達してきました。さらに,国力を充実させるには海外に進出することが近道であるとし,朝鮮への進出をはかりました。
朝鮮を属国(ぞっこく)としていた清国(しんこく)との対立から,わが国と清国との戦争(日清戦争)が,1894(明治27)年に始まりました。
相模原の各村からも,多くの若者たちが兵士として戦場に向かいました。そのうち10 名をこえる兵士が戦死しました。
1904(明治37)年に起きた日露戦争は,当時の欧米列強(おうべいれっきょう)の一国であったロシアが相手であり,多くの戦費がかかるので,政府は,国民に戦せん じ時国こくさい債を買って協力するように働きかけました。
国税も大はばに増額されました。地主に対する税の増額は,土地を借りている小作農民たちに大きな影響を与えました。小作料は,畑が30%,宅地が50〜60%増額されました。そのうえ,村から多くの出征兵士(しゅっせいへいし)が出たので農家では働き手が減り大変に苦しみました。そのしわよせは小学生にまで及び,学校をやめる者や学校へ行けない子どもが多くなりました。
相模原から,日露戦争に従軍(じゅうぐん)した軍人や,その戦没者(せんぼつしゃ)は日清戦争の時の4倍以上になっています。
日清・日露戦争慰霊碑(南区東大沼)
相模原地域における日清・日露戦争従軍者数と戦没者数
注1. 従軍者数の中には,戦没者数をふくむ。
注2. ※印の人口は,当時の記録がないため推定人口である。
注3. 従軍者数と戦没者数は,市内の各地区に建立されている慰霊碑によったものである。
注4. 日露戦争については,城山地域では39人が従軍し,戦没者6人。津久井郡全体では331人が従軍し,戦没者は30人であった。
鉄道開通前の交通
鉄道が開通する前の相模原の交通は,道路と川を利用していました。当時の乗り物は,人力車か馬車, 又は相模川の舟でした。そのころは,高座郡(こうざぐん)の郡役所が藤沢にあったので,村役場の職員はたびたび藤沢に行きましたが,歩くと往復に2日近くもかかり大変な苦労でした。
1889(明治22)年,東京から八王子まで甲武(こうぶ)鉄道(今の中央線)が開通したので,相原村の村長の相沢菊太郎(あいざわきくたろう)などは橋本から人力車で八王子に出て,八王子から汽車で東京へ行き,東京から東海道線で藤沢に行っています。
また,当時の人員輸送として相模川に「小倉(おぐら)ノ渡」があり,小倉村が相模川の舟業(しゅうぎょう)拠点でした。後に川尻側の舟業と営業権をめぐって裁判になっています。
鉄道の開通
相模原にも待望の鉄道が敷かれることになりました。最初の計画は,1886(明治19)年に政府に出されましたが,当時,政府は東京を通る計画でなければならないとして,許可しませんでした。
1902(明治35)年,沿線住民の代表者40名の人びとが,横浜鉄道建設計画を政府へ提出しました。政府も情勢の変化により,この計画を許可しました。
一方,中央線も1901(明治34)年,八王子−上野原(うえのはら)間が開通し,与瀬(よせ)駅(現在の相模湖駅)が開業しました。
神奈川道と横浜鉄道
幕末以来の生糸輸出の増加にともなって,関東西部の山沿い地方や山梨県・長野県で生産された生糸が,八王子から神奈川道を通って横浜に運ばれていました。
また,相模原・津久井地域や三多摩地区も生糸の産地でした。このため,神奈川道は「絹の道」※の役割を担っていました。これらの生糸を運ぶために鉄道が必要となりました。これが横浜鉄道の敷かれる一番の理由だったといわれます。
今日でも町田市小山町から八王子市鑓水(やりみず)までの山あいの道は「絹の道」のおもかげをよく残しています。鑓水には「絹の道資料館」も造られ,生糸取り引きに活躍した「鑓水商人」の歴史を伝えています。
※「絹の道」は昭和40年代になって,八王子市の文化運動のなかで言われるようになった(特に鑓水地区)もので歴史的な用語ではありません。
橋本駅の設置運動
横浜鉄道の路線計画では,橋本駅は,はじめの計画にはありませんでした。橋本地区の人びとは相談し,近くの村にも協力を求めて,鉄道会社に駅の設置を申し入れました。しかし,会社からはよい返事はありませんでした。そこで,橋本地区の人びとは駅の用地や用水(蒸気機関車用の水)のほかに建設費として,1,000円の寄付を申し入れました。会社もこれを受け入れて,橋本駅ができることになりました。
1908(明治41)年9月23日の鉄道開業の日は,汽車見物に近くの村から多くの人びとが集まり,駅付近は大変なにぎわいでした。橋本では花火が上がり,お神楽(かぐら)が行われました。この日から10日間は,鉄道運賃を半額にしたので,どの汽車も満員のありさまでした。
また,車内には,物売りのボーイがいたそうです。客車のドアの前で,はきものをぬいで客室に入った人もいたという話も伝わっています。
開業当時の橋本駅には,駅長以下5名の駅員がいました。また,一日の乗車人員は平均37名,運賃収入は5円でした。翌年にはそれぞれ3倍になっています。
橋本駅設置記念碑
1904(明治37)年,横浜鉄道株式会社が東神奈川に本社をおいて発足しました。はじめの路線計画では相原村の北部を東西に横切ることになっていましたので,村人たちは,畑仕事や桑の木への煙害,子どもの通学の危険などをあげて,この計画に強く反対しました。このため,線路は村の南側を通ることになりました。
東神奈川・八王子間42.6kmは,1906(明治39)年6月に工事をはじめ,1908(明治41)年8月に完成しました。開業は,同年9月23日でした。当時の停車場は,東神奈川・小机・中山・長津田・原町田・淵野辺・橋本・相原・八王子の9駅であり1日7往復の汽車が黒煙をあげて走りました。
開業後の横浜鉄道の営業成績は予想に反して良くありませんでした。そのため1910(明治43)年,鉄道院(のちの国有鉄道)に全線の経営を任せて,1917(大正6)年には,鉄道院に買収されました。
製糸業の発達と漸進社
畑地の多い相模原では養蚕(ようさん)が盛んでした。繭(まゆ)や糸の売り上げは農家にとって貴重な現金収入でした。
相模原の製糸業(せいしぎょう)は,養蚕が盛んになるとともに起こり,次第に盛んになりました。明治30年ごろ,相原村では,全農家の約80%にあたる450戸が製糸作業を行い,屑糸(くずいと)を含めた生産量は,10,125㎏に達しました。当時農家では,足踏み糸とり機を使う糸とりが中心でした。
1886(明治19)年,大島村の中里鶴吉(なかざとつるきち)らにより,共同生糸揚返(あげかえし)・共同販売のための組織として漸進社(ぜんしんしゃ)[資料1][資料2][資料3][資料4][資料5]がつくられました。1893(明治26)年には,合資会社(ごうしがいしゃ)を組織にし,事業を拡大しました。漸進社は,はじめは直営工場はもたず,各農家で生産される糸を揚返所を通じて買い取り,検査し,品質別に分類し,梱包(こんぽう)して販売していました。
1913(大正2)年には所属揚返所142 か所,加入製糸者数12,000人,年生産量195,000㎏に達し,組合製糸業では全国の4大会社に入るほどでした。
その後,各村の揚返所は産業組合に組織が変更されました。漸進社は組合相互の発展のための連合組織となりました。1916(大正5)年ころには,各産業組合では製糸工場を設置し,足踏み糸とり機から器械製糸へと切り替えました。漸進社の直営工場は,1924(大正13)年から営業を開始しました。この工場では50名ほどの娘たちが寮生活で働いていました。
1937(昭和12)年に解散するまで約50年間,相模原の製糸業とともに発展してきた漸進社は,相模原の近代工業のさきがけとなりました。
一方,川尻(かわしり)村でも1886(明治19)年に, 共進(きょうしん)社と拡産組(かくさんぐみ)の揚枠所(あげわくじょ)が設立され,1902(明治35)年6月に,足踏の揚返所が設けられています。
足踏み糸とり機
漸進社(ぜんしんしゃ)の寄宿舎生活
「着物に帯をしめ,白いかっぽう着をつけて作業しました。若い娘たちばかりなので結構(けっこう)おしゃれで,髪にはリボンやくしをつけていました。工場は毎月第1・第3日曜日が休みでした。寄宿舎(きしゅくしゃ)では先輩格の人が部屋長になり,めんどうを見ました。夜は部屋のまん中に集まり,縫(ぬ)いものをしたり,事務所でまとめてとってくれていた婦人雑誌などを読んだり,おしゃべりをしたりしました。
食事は三食とも食堂で,米のご飯・みそ汁も自由におかわりができ,家にいるよりよほど良かったです」
八木チウさん・八木ユウさんの話 1979(昭和54)年談
長田かな子著『母たちの時代』より
漸進社の作業風景(昭和のはじめ)
漸進社本社(大正)(緑区大島)
2 大正時代の相模原
議会政治の父 尾崎行雄
1913(大正2)年2月,日本は第1次憲政擁護運動(けんせいようごうんどう)の嵐のなかにありました。
これは,長州(ちょうしゅう)藩出身の桂太郎(かつらたろう)首相が議会を無視する態度をとったとして,新聞や知識人・政党人,そしてそれを支持する民衆がおこした運動でした。このとき藩閥(はんばつ)政治を批判し活躍したのが,現在の緑区又野(またの)で生まれた尾崎行雄(おざきゆきお)(咢堂(がくどう))[資料1][資料2]です。
尾崎行雄は,1890(明治23)年の第1回総選挙から25回続けて衆議院議員に当選し「議会政治の父」などと言われました。
1874(明治7)年,慶應義塾(けいおうぎじゅく)に入学した尾崎行雄は,新聞社の主筆(しゅひつ)などをへた後,1882(明治15)年に大隈重信(おおくましげのぶ)らによって結党された立憲改進党(りっけんかいしんとう)に入り,文筆家・演説家として活躍しました。
東京府会議員を務めた後,日本最初の衆議院総選挙で当選し,実に60年余にわたり国会議員として活躍しました。
激動の日本近・現代史のなかで,時に薩摩(さつま)・長州の藩閥政治と,時に軍部軍閥(ぐんばつ)と,時に党利党略に走る政治家と戦い,民主主義と世界平和の実現にその生涯(しょうがい)をかけました。
また,東京市長時代にアメリカのワシントン市に3,000本の桜の苗木を送って日米の架(か)け橋となったことでも知られています。この桜並木は現在ではワシントン名物の一つになっています。
その後の憲政擁護運動では,犬養毅(いぬかいつよし)らと共に運動の中心的な活動をし,さらに時代が次第に戦争へと傾く中,毅然(きぜん)とした態度で軍国主義に立ち向かいました。
戦後も衆議院議員を務め,1952(昭和27)年衆議院から憲政功労者(けんせいこうろうしゃ)として表彰され,その後衆議院名誉議員,東京都名誉都民に推薦(すいせん)されました。
1954(昭和29)年に神奈川県逗子市で,95歳の生涯を閉じました。
1957(昭和32)年,生誕地・旧津久井郡津久井町に尾崎咢堂記念館が建設[資料1][資料2]され,現在でも尾崎行雄(咢堂)にまつわる品々が展示されています。
尾崎行雄
竹やぶの夜営
1923(大正12)年9月1日午前11時58分,関東地方南部一帯に大地震が起こりました。この大地震によって多くの建物が倒れ,火災や津波のために関東地方で大きな被害が出ました。震源地が伊豆大島付近の海底であったため,神奈川県沿岸部の被害は特にひどいものでした。はげしい余震が絶え間なく襲いました。人びとは家の中で寝ることもできず,竹やぶの中などで寝るような人も多かったといわれています。
9月3日戒厳令(かいげんれい)がしかれ,5日には相模原の各村役場に戒厳令本部が置かれました。麻溝村には横浜水道が通っていたので,警備のための騎兵隊(きへいたい)が派遣されました。地震の発生と同時に交通や通信がとだえたため,正確な情報が得られず,多くのデマが伝わり混乱しました。新聞の号外が9月6日に配達されて,正確な情報が伝えられました。不通であった横浜線は9月29日に運転を再開し,電燈(でんとう)も10月8日ごろようやくつくようになり,人びとの気持ちもやっと落ち着きを取り戻しました。しかし,余震は引き続いて起こり,年末までに小さなものまで含めると3,000回に達しました。いかに大きな地震であったかがわかります。また,このときの沢井村の加藤友一郎記録の「加藤日記」には,地震そのものの記述や当時の人々の様子も記述されています。
相模原における関東大震災被害状況
※※溝村は,のちの上溝町
※この他,全壊住家が,青根で8,内郷で2。
死亡者が,青野原で3,名倉で3,青根で1,串川で1,牧野で4。負傷者が,日連で1。
関東大震災と相模原 『相沢日記』より
1日(晴)
家にいる。正午大地震,昼食中にて自分と英子・松代・栄久・お手伝いのハルは大地震のため裏庭に飛び出す。震動急に増し,見る間に土蔵の壁は全部落ち,家は船のごとくゆれ,各所に地割れが生ずる。なお,震動はやまず,3時頃には軽動となり,ひとまず落ち着いたけれども後難を恐れ,みな竹やぶに引っ越し,夜営の準備をする。‥‥中略‥‥
この夜,わが一家は竹やぶに露営す。金子島二郎家族,井上浅二郎家族も竹やぶに露営。神田稲吉,佐久間浅次郎家族は,わが家所有の竹やぶの入り口に露営す。
‥‥‥以下略
2日(晴時々曇り)小雨あり
引きつづき震動止まらず,人心不安何事も手つかず。そのうち横浜方面より帰村の者のたよりにて,横浜の大地震を聞き,正金銀行だけ見えて,その他市中は全部倒壊,火災にかかり人畜の死傷数知れず。‥‥中略‥‥
この夜も竹やぶに露営す。
3日(晴)
前日のごとく時々震動。一時の安心の時なく,大事のわが家に安心していることができずとは何という災害ぞや。‥‥中略‥‥
この夜も震動止まらず,竹やぶに露営す。
4日(晴時々曇り)
‥‥‥略 午後も時々震動あれども,この夜は家の表座敷へ家族一同寝る。
雨戸を開け放し,すぐに飛び出す用意をなす。
※相沢菊太郎は相原村の村長を務め,橋本駅設置や農業振興に大きな業績を残しました。1885(明治18)年より1962(昭和37)年の死の直前にいたるまでの78年間,日記を書き続けました。『相沢日記』は,相模原の近代史研究の重要な資料として平成15年4月1日に「市指定有形文化財(歴史資料)」となりました。
中等学校の設立
明治の末ごろには,神奈川県内には4つの県立中等学校(現在の高等学校)が設立されていました。ところが,相模原から最も近い中等学校は,1902(明治35)年に愛甲郡南毛利(なんもうり)村に設立された県立第3中学校(現在の厚木高校)だったので,相模原にも中等学校をつくりたいという要望が高まってきました。
津久井郡立蚕業学校
津久井郡立蚕業(さんぎょう)学校(現津久井高校)は,1902(明治35)年,津久井郡三ヶ木(みかげ)村に設立されました。修業年限は,本科2年,別科4か月,生徒定員は本科が60名,別科が30名以内とされました。
本科の学科目は,修身,作文,算術,理科などと製糸法などの実業科・実習とされました。この学習内容で気付くのは,実業学校であるので,実業学科が多いのは当然ですが,普通科目にも多くの配当時間があり,技術だけでなく人間性の教育にも力を入れていたことがわかります。
津久井郡立蚕業学校(明治末期)
鳩川農業学校
1911(明治44)年5月,溝村・大沢村・田名村の三か村組合立乙種(おつしゅ)実業学校として,上溝に鳩川農業学校が開校しました。校舎は,旧常宿寺(じょうしゅくじ)の建物を使い,教員は校長と他3名,生徒は29名で発足しました。
やがて,生徒が増えてくるのにともない本格的な校舎の建設が必要になってきました。1912(明治45)年に新校舎の建設が始まり,1913(大正2)年に落成式を迎えました。この日は,高座郡北(こうざぐん)部で最初の中等学校の校舎落成を祝い,朝から花火が上がり,お神楽(かぐら)も行われて,多くの参観者で大変なにぎわいでした。学校施設が充実すると,生徒数も増え,三か村以外の村からの入学者の割合も高くなっていきました。1916(大正5)年,鳩川実業学校として改称され,修業年限2年の女子部も置かれました。
鳩川実業学校(大正初期)
農蚕学校
1919(大正8)年には,甲種(こうしゅ)農林学校をつくるために高座郡北部の5か村の村長たちが県庁へ陳情に行きました。長い間の熱心な運動が実を結び,1922(大正11)年1月,高座郡北部に県立農蚕(のうさん)学校を設置することが県議会で可決されました。
創立当時の農蚕学校(大正末期)
設置は決まったものの,どこに設置するか,関係の村の間で激しい誘致(ゆうち)運動が始まりました。鳩川実業学校を持っていた溝・田名・大沢の三か村は,鳩川実業学校を寄付すれば誘致できると考えました。
一方,相原村では,必要な土地全部を寄付して横浜線の通っている橋本へ誘致しようと考え,直ちに運動を始めました。
県は,交通の便の良い相原村橋本に決定し,1923(大正12)年,農蚕学校(現在の相原高校)が開校しました。
光明学園
私立の中等学校として,1919(大正8)年,当麻山無量光寺(たいまさんむりょうこうじ)に光明学園がつくられました。創立者の無量光寺第61世山崎弁栄上人(べんねいしょうにん)は,上人の主張する光明主義による人間教育をめざしていました。
学園ははじめのうち,お寺の庫裡(くり)の二階で授業を行いましたが,後に現在の場所に校舎をつくり,1926(大正15)年に移転しました。当時としては全国でも珍しい男女共学制を採用していました。
生徒は地元町村ばかりでなく,愛甲郡・津久井郡・東京の多摩地方からの入学者もかなりいました。
山崎弁栄上人と光明学園 1922(大正11)年
鳩川実科高等女学校
県立農蚕学校の設置によって打撃を受けたのが鳩川実業学校でした。1921(大正10)年には,男子43名,女子30名,計73名の生徒が在学していましたが,県立農蚕学校の設置が決定した1922(大正11)年には,入学者は女子8名だけでした。
1923(大正12)年の生徒募集は中止され,4月より,その校舎を使用して,溝・田名・大沢・麻溝・大野の5か村組合立の学校として,鳩川実科高等女学校(現在の上溝高校)が開校されました。鳩川実科高等女学校は,修業年限4年の学校でした。
これにより,鳩川実業学校は13年の歴史を閉じ,在学していた男子生徒の希望者は新たに開校した県立農蚕学校へ転校し,女子生徒は鳩川実科高等女学校へ編入されました。
現在の上溝高校
新しい町の誕生
上溝は明治のはじめより市場が開かれていたため,近村から多くの人々が集まり,官公署や金融機関などがおかれ,当時,相模原地域の中心となっていました。1926(大正15)年1月1日,それまでの溝村は,上溝町(戸数743戸,人口4,480人)として発足しました。以後上溝町は相模原地域の中心として栄え,合併して相模原町が誕生するまで,相模原地域では唯一の町でした。
一方,津久井地域では,1913(大正2)年に,与瀬(よせ)町・吉野町,1925(大正14)年に中野町が誕生しました。
溝村から上溝町へ 溝村村長 佐藤幸太郎さんの記録
わが溝村は近年著しく発展して市街の体裁を形成し,市街地たる市場には警察署・登記所・県支金庫・実科高等女学校・銀行・郵便局等あり。
その他の商店が並び,なお発展の余地を認め‥中略‥わが溝村はその名称古来より上溝村なりしも,明治22年町村制施行に際し,当時町村分合配置等の関係より溝村と改称せられたるものにて,もとより現在の村名たるや村民の世論もしくは希望にもとづくものではなく‥中略‥一般に上溝と称するものほとんどにて,今回町制施行に際し名称を復旧して上溝町と称せんとするは,村民一般の世論,かつ希望なり。
‥以下略‥
3 強まる軍都色
昭和初期の不況
昭和のはじめは,不況の時代で,失業,就職難,銀行の倒産などに見舞われました。農村においては生糸の値下がり,冷夏による農作物の不作など,農家の家計は大変に苦しい状態でした。養蚕(ようさん)がさかんだった相模原においても不況の影響は厳しいものでした。
このため,全国各地の農村で小作争議(こさくそうぎ)がおきました。相模原では,1933(昭和8)年,武相小作農民組合が作られ地主に対して,小作料を50%減らすように要求を行いましたが,相原村と堺村(現在の町田市)の両村長の調停により解決しました。磯部でも小作料減額の要求がおこるなど小作争議があいつぎました。 農家では,この不況から抜け出すために,農業経営の転換を行うようになりました。今まで養蚕のために育ててきた桑畑の桑の木を抜いて,野菜やすいかなど換金(かんきん)しやすい作物栽培を始めるようになりました。右の写真は大野園芸組合のトラックを使用しての出荷風景です。
また,農家の負債(ふさい)(借金)に対しては,農村負債整理組合法が公布され,各村に負債整理委員会が設置されました。1935(昭和10)年に麻溝村,1936(昭和11)年に串川・牧野の両村,1937(昭和12)年に新磯・青根の両村,1938(昭和13)年に青野原・上溝・田名・川尻・大沢・三沢・佐野川の7町村に委員会が設置されました。
すいかの出荷風景
梅宗寺(ばいそうじ)農繁期託児所(のうはんきたくじしょ)(昭和初期)
不況下の相模原
農村のようす‥‥‥‥‥‥‥‥『相沢日記』より
1930(昭和5)年6月1日
本年は家ごとに桑の葉が残りて売り買いできず,桑売りによる収入は全てない。生糸一貫目(約3.75kg)は4円前後にて,一生けん命働いてもむだなありさまにて,だれひとりとして成功せず,農家全体が非常に困った。
1931(昭和6)年7月24日
冷気はなはだしく,真夜中このような寒冷,そのうえに雨天続きはめずらしいことにて,一般におどろきである。農作物は育ちが悪い。麦は脱穀する晴天がなく,機械で脱穀したが,日光で干すことができないため,品質悪く,その上値段も下落した。
家出娘の話‥‥‥‥‥‥‥‥「横浜貿易新報」(現神奈川新聞)より
1934(昭和9)年のある日,小田急線新原町田駅で,20歳くらいの3人の娘が,もの思いに沈んでいました。巡回中の警察官が不審に思って聞いてみると,大野村の娘たちでした。娘たちは,まゆの値段が安くなって家計が苦しいので,働き場所を見つけ,家へ送金しようとして東京へ行く相談をしていたのでした。
横浜線・中央線の電化
明治時代末に開通した横浜線は,大正時代に入っても旅客がなかなか増えませんでしたが,大正の末になり,ようやく増加の傾向が見られるようになりました。しかし,運転回数や車両はほとんど変化がありませんでした。1924(大正13)年には,沿線住民が電化の促進運動を起こしましたが,不況のためなかなか実現しませんでした。
ガソリンカー
1932(昭和7)年,東神奈川〜原町田間がやっと電化されました。
しかし,原町田〜八王子間は,そのままで,ガソリンカー(小型気動車)が走っていました。そのため,お客は原町田駅で乗り換えなければなりませんでした。
原町田〜八王子間の電化は,1941(昭和16)年4月に実現しました。沿線住民の願いであった全線電化と東神奈川〜八王子間の直通運転がようやく実現し,このときに相模原駅も開業しました。
また,中央線の八王子〜甲府間も1931(昭和6)年4月に電化されました。1943(昭和18)年7月には藤野駅も開設され,与瀬駅(現在の相模湖駅)と共に,東京・山梨方面と津久井地域を結ぶ貨客輸送に大きく貢献(こうけん)しました。
広軌鉄道の試験
1917(大正6)年,わが国ではじめての蒸気機関車による広軌(こうき)(レール間1435㎜)試験が,原町田~橋本間で行われました。この区間は10.9kmの直線距離と東京から近いことが試験線に選ばれた理由でした。試験線は,毎日使用しているレールの外側にもう一本のレールを敷いて,広軌にして行われました。この試験は,より多くの輸送を行うため,日本の狭軌(きょうき)鉄道を広軌鉄道にかえる試験でした。試験は,広軌・狭軌のそれぞれの車両ばかりでなく,両方を混合した列車の運転にも成功しましたが,狭軌論支持の原敬(はらたかし)内閣の誕生で,この計画は実現しませんでした。
小田急線の開通
相模原地域南部を通る私鉄の小田急線が開通したのは,1927(昭和2)年4月1日でした。小田急線は複線として計画されましたが,完全に全線複線運転が行われたのは,同年10月からでした。当時の新宿〜小田原間の駅は36駅,運転は45分ごとで24本,かかる時間は2時間23分,運賃は1円36銭,全線の距離は82.8㎞でした。
沿線の人々から大きな期待をかけられ,開通の日には花火の打ち上げなども行われて大歓迎のなかで開業した小田急線でしたが,開通直後の利用客は予想外に少ない状態でした。これは,はじめは全線の半分以上の区間が単線であったことや,この時期の不景気に原因があります。6か月後の10月15日には全線複線となり,急行電車も運行を開始するようになると,しだいに乗客も増加していきました。
1929(昭和4)年4月1日には,小田急江ノ島線が開通しました。相模大野〜片瀬江ノ島間の駅は13駅,新宿から1時間33分,運転は1時間ごとで16本,運賃は95銭,距離は27.3㎞でした。小田急江ノ島線建設とあわせて,沿線の土地分譲も行われました。それらの駅が東林間都市・中央林間都市・南林間都市(今の東林間・中央林間・南林間)でした。
開通当時の電車
相模大野駅のエピソード
相模大野駅(当時は通信学校駅)は,1938(昭和13)年4月1日に開業しました。そのころ,この辺には家はなく森林だけでした。この年に陸軍通信学校が近くにつくられたため,駅ができました。駅ができる前は,江ノ島線との分岐点のために信号所があり,その職員の住宅が1軒あるだけでした。となりの家は今の小田急相模原の辺(あたり)まで行かなければなりませんでした。ある夜のこと,この社宅に1匹のたぬきがとびこんできました。びっくりした家の人はやっとのことで,このたぬきを取り押さえました。そして,毛皮のえりまきにしたそうです。
1940(昭和15)年ころの通信学校駅(現在の相模大野駅)
駅の表示板
幻の南津電気鉄道
1927(昭和2)年に計画された鉄道は,多摩市一ノ宮から京王線で都心に接続させ,鑓水(やりみず),横浜線の相原を経て当時の津久井郡川尻村まで結ぶものでした。南多摩と津久井の文字を取って「南津(なんしん)電気鉄道」と名づけられました。主な目的は,南多摩の開発や相模川の良質な砂利や津久井の木炭などを東京に搬出(はんしゅつ)するためでした。鑓水に2階建ての本社が置かれ,基礎工事も始まりましたが,恐慌による絹糸相場の暴落に養蚕の不振が重なって資金繰(しきんぐ)りが厳しくなり,1930(昭和5)年に「南津電気鉄道株式会社」は潰(つぶ)れて計画も立ち消えとなりました。
現在,八王子市鑓水にある「絹の道資料館」の前の道を北西に200mほど行ったところに「鑓水停車場」と刻まれた石の道標(みちしるべ)があり,歴史を今に伝えています。
写真中の右端が石の道標
相模線の開通
相模原の西側を通っている相模線は,相模軽便(けいべん)鉄道として,1920(大正10)年に茅ヶ崎・寒川間が開通し,1926(大正15)年には厚木まで,1931(昭和6)年には橋本までの全線が開通しました。その後,1944(昭和19)年に運輸通信省に買収されました。
相模線エピソード
今でも相模線の沿線には田園風景が見られますが,開通した頃は乗客もきわめて少なかったそうです。
汽車が動き出してからでも,乗り遅れた乗客が手をあげれば停車してくれたそうです。また,蒸気機関車から出た火の粉(こ)で線路近くの農家のわら屋根が燃えて大火事になったこともあります。
第2次世界大戦中には,燃料の石炭の質が悪くなったため蒸気が十分にあがらず,上溝と南橋本間で後もどりしてしまった話も語りつがれています。上溝駅は,もとは相模横山駅といい,現在の番田駅を上溝駅といったため,上溝に来る人がまちがえて,現在の番田駅でおりてしまい,町の中心部まで歩かなければならないことも起こり,後に改称されました。
相模線を走る貨物列車 1935(昭和10)年ころ
軍事施設の進出
1931(昭和6)年9月に中国東北部(旧満州)で,日本軍と中国軍との武力衝突が起こりました。日本軍は,たちまち満州の大部分を占領し,翌年には,満州国をつくりました。
このころから軍が政治にもかかわり,しだいに軍が政治を左右する時代になっていきました。こうした社会情勢の中で,軍関係のいろいろな施設が相模原や座間につくられるようになりました。
陸軍士官学校
1936(昭和11)年6月,陸軍からの電話で,座間・新磯・大野・麻溝村の村長たちは,座間村役場に集められました。話の内容は,東京にある陸軍士官学校の移転用地と練兵場(れんぺいじょう)用地を買収したいということでした。新磯村と麻溝村は,練兵場用地の中に多くの耕作地があったので大騒ぎとなりました。しかし,軍国主義の時代で強い反対もできず用地の一部をのぞいてもらうことで承知しました。
軍に土地を接収(せっしゅう)されることになり新磯村の地主が自殺するというような悲劇も起こりました。
建設工事の一部が1937(昭和12)年9月に終わり,9月末には1,300名の生徒が移転してきました。
この陸軍士官学校の跡地は,現在は,在日アメリカ陸軍司令部(キャンプ座間)になっています。
行幸道路と相武台
JR町田駅の南側から国道16号線を横切り相模大野・小田急相模原を通り,在日米陸軍キャンプ座間に至る約7㎞の道路を行幸道路といいます。この道路は天皇が陸軍士官学校の卒業式に行幸(ぎょうこう)(お出かけになること)するためにつくられたものです。1937(昭和12)年12月20日に実施される卒業式に間にあわせるため,大急ぎで工事が行なわれ,行幸直前に一応整備されました。同日,天皇はこの道路を通って第50期の卒業式に臨(のぞ)み,学校の場所を「相武台(そうぶだい)」と名づけました。天皇は卒業式のたびに同校へ行幸しました。その後,この道路は多くの青年団員や学校生徒の勤労奉仕(きんろうほうし)により完成しました。
臨時東京第三陸軍病院
現在の独立行政法人国立病院機構相模原病院は,1937(昭和12)年12月から臨時東京第三陸軍病院として,建設工事にかかり,翌年3月に完成しました。当時の広さは現在の3倍もあり,病棟は54棟,収容患者数は4,000〜5,000名とされていましたが,多いときは患者の数が6,000名をこえたこともあり,患者のほとんどは戦場からの傷兵でした。職員は2,300名ほどいましたが,そのうち看護師はわずか5〜6名だったそうです。
臨時東京第三陸軍病院
相模陸軍造兵廠
横浜線の相模原駅と矢部駅の北側に広がる在日米軍相模総合補給廠(ほきゅうしょう)はかつての相模陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)の跡地です。この造兵廠の建設が決まったのは1937(昭和12)年8月でした。同年12月に工事が始まり,翌年8月に完成しました。
造兵廠の仕事は戦車や砲弾の製造で,従業員は一般工員のほか,戦争が激しくなると徴用(ちょうよう)工員・勤労動員学生・女子挺身(ていしん)隊員など約11,300名もの人々が働いていました。戦車の生産は月15台をこえなかったといいますが,砲弾の生産は順調で,造兵廠の空き地に山と積まれていたそうです。しかし,太平洋戦争の末期には原料不足を補うため寺の釣り鐘や家庭の金属類までが運び込まれました。
陸軍兵器学校
陸軍兵器学校 関連資料リンク
陸軍兵器学校は,現在の麻布大学や大野北中学校のある場所に,1938(昭和13)年3月に建設工事がはじめられ,同年8月に一部が完成し,東京小石川から移転してきました。
戦争末期には,学生4,000名,軍属(ぐんぞく)(軍で働く職員)1,000名がいました。現在「並木通り」と呼ばれているバス通りは,兵器学校の本部に行くためにつくられた道路です。
陸軍兵器学校
その他の主な軍の施設
軍都計画時代の軍諸施設配置図
注①1941(昭和16)年当時の配置ですが、1943(昭和18)年設置の陸軍機甲整備学校を含んでいます。
注㈪地図中の年号は,軍施設・駅の設置年を表します。
軍都計画[資料1][資料2]の実施
3本の鉄道が通るようになり交通の便が飛躍(ひやく)的によくなったうえに,軍関係施設の移転があいつぎ,相模原地域は大きく変わりつつありました。
1939(昭和14)年,神奈川県は,予想外の発展をつづける相模原地域に対し,ただちに軍都の建設事業を実施することにしました。
同年6月,神奈川県庁において,相模原開発計画についての会議が県・地元町村・軍関係施設の代表者などによって行われました。会議の中で,士官学校を中心とした地区と造兵廠(ぞうへいしょう)を中心とした地区に分けて計画を立てていることが,県から説明されました。9月には,臨時県議会が開かれ「相模原都市建設区画整理事業」に関する議案が提出され,可決されました。主な計画として,道路は造兵廠から上溝をつなぐ道(今の市役所さくら通り)を縦の幹線とし,県道横浜・中野線(今の国道16号線)を横の幹線として,約500mおきに幹線道路を作ることや,住居地域・商業地城・工業地城に分けて人口10万人の都市をつくることなどでした。これらの費用は地元の負担を原則としました。
1940(昭和15)年,相模原区画整理事務所(現在の大野北出張所の場所)前の広場で,起工式が行われました。しかし,翌年には太平洋戦争がおこり,物資や労働力不足のため計画は延期されました。
星が丘の地名の由来
軍の施設ができたため従業員の宿舎が必要となりました。現在の「星が丘」には,このときに造兵廠従業員の住宅が建てられました。造兵廠は陸軍の施設であり,陸軍のしるしは星だったので,この地は「星が丘」という地名になりました。
日本一大きな相模原町の誕生
都市建設区画整理事業の進行とともに町村合併の気運が高まりました。そして,町村合併を進めるための相模原軍都建設連絡委員会[資料1][資料2]が作られました。この会のメンバーは県関係者,地元選出の県会議員,6つの村(相原,大野,大沢,田名,麻溝,新磯)と2つの町(上溝,座間)の町村長などでした。
第1回総会は,1939(昭和14)年12月に県庁で開かれ,以後数回の会合が行われました。翌年7月,県から合併について2つの案が出されました。
(1)士官学校を中心とする合併案
座間,新磯,麻溝,大和の4か町村合併
(2)造兵廠を中心とする合併案
上溝,大野,相原,大沢,田名の5か町村合併
地元からは,9か町村を一緒に合併する意見が多く出ました。しかし,大和村(今の大和市)は,この合併に反対だったので,大和村を除く8か町村が合併することになりました。
こうして1941(昭和16)年4月29日に相模原町が誕生[資料1][資料2][資料3][資料4]しました。当時の人口は45,482人,面積は108.71㎞²という日本一大きい町でした。町役場は,はじめ区画整理事務所(今の大野北出張所の場所)にありましたが,同年9月には上溝に移りました。
中央区上溝にあった町役場
第二次世界大戦下の相模原
1941(昭和16)年12月8日午前6時,ラジオの臨時ニュースは「帝国陸海軍は本8日未明,西太平洋において米英軍と戦闘状態に入(い)れり」と放送しました。1937(昭和12)年7月からの長い日中戦争にくわえ,新たにアメリカ合衆国とイギリスを敵として,1945(昭和20)年8月15日まで,3年8か月の間,国民は苦しい生活をすることになりました。
耐乏(たいぼう)生活の毎日
戦争が激しくなるにつれて品物が不足しすべての品物は,自由に売買することが禁止されました。生活必需品(ひつじゅひん)は配給制となり決まった量しか手に入りませんでした。主食は,米の代わりに麦・大豆・いもなどが配給されましたが満腹になる量にはほど遠いものでした。やがて,食糧事情はますますきびしくなりました。マッチさえも十分に使うことができなくなりました。
衣料品は「衣料キップ」がなければ買うことができなくなりました。戦争への協力のために,生活のすべてにわたってがまんしなければなりませんでした。
衣料キップ
戦争末期になると空襲(くうしゅう)に備える訓練も行われるようになり,男子は「国民服」を着て,ゲートルを巻き,戦闘帽(せんとうぼう)をかぶる姿,女子は「もんぺ」姿が一般的になりました。
入学式の子どもたち 1944(昭和19)年 田名国民学校
国民学校の生活
学校の生活も戦争のため,勉強だけに励んではいられなくなりました。人手不足を補うため国民学校(現在の小学校と中学校2年まで)の4年生以上の児童は,出征軍人の家の農作業の手伝いをしました。大沢国民学校では,大沢出張所から脱穀(だっこく)の機械を借りて放課後に出征(しゅっせい)軍人の家の脱穀(だっこく)に回りましたが,放課後だけでは作業が終わらないので,高等科(今の中学1・2年)の授業を午前中で打ち切り,午後は脱穀の作業をしました。
勤労奉仕・草とり 1942(昭和17)年 上溝国民学校
大戦下の国民学校生活
私たちは,暑い夏の日に浅野重工の農場(現在の新日鉄の付近)へ草むしりに行きました。少し作業していると顔から汗がぽたぽたと流れ,目に入りました。手で汗をふくと顔が土で黒くなり,腰は痛くなるし汗は目にしみるので非常につらかったことをおぼえています。それでも日本が勝つためにとがんばりました。
食べ物が十分になかったので,毎日空腹を感じていました。お弁当は,ほとんどの者が麦めし,さつまいも,さつまだんごなどで,お米だけのお弁当はありませんでした。また,クラスで3・4人はお弁当を持ってくることができませんでした。
運動ぐつなどのはきものがなくなり,家でげたを作り,そのげたで通学しました。雪の日は,げたでは歩けないので,はだしで学校へ行ったこともありました。
楽しみな行事は,運動会でした。そのころの演技種目の中には,丸太の先にアメリカ,イギリス首脳の似顔絵をつけ,これをどちらが先に落とすかというゲームがありました。
1945(昭和20)年度大野国民学校5年生 細谷宏明さん 1992(平成4)年談
大戦下の運動会風景 1944(昭和19)年
小学校集団疎開
戦争の影響が直接本土に出はじめた1944(昭和19)年8月,神奈川県内の都市部から相模原へ子どもたちが集団疎開(そかい)してきました。横須賀市立坂本・鶴久保・汐入(しおいり)・田浦の4つの国民学校の3年生から6年生1,657名と,横浜市神奈川区の横浜市立神奈川国民学校の256名,計1,913名の子どもたちです。麻溝国民学校や川尻国民学校などが受け入れ校でした。疎開とは,空襲などの攻撃を避けるために前もって安全な場所へ移すことです。子どもたちは家族から離れて,先生につきそわれて来ました。子どもたちの宿舎には,お寺をあて,近くの学校の教室を借りて授業を行いました。
食べ物がなかったときだったので,いつも空腹でした。受け入れた地元のおとなたちも子どもたちも,食糧や燃料のたきぎなどを出して精いっぱいの協力をしました。
疎開した子どもの中には,親が恋しくなって夕方になると泣き出す者もいました。小さな子どもたちのことなので夜中に便所に行くのがこわくて,おねしょをしてしまった子どももいました。これらの子どもたちは,翌年3月には卒業のため6年生が帰り,4月には新3年生がやってきました。そして,戦争の終わった1945(昭和20)年10月,全員が横須賀・横浜へ帰りました。
疎開児童の日記 鶴久保国民学校6年 逢田とも子
8月31日(木) 晴れ
正午ころ皆学校へ行って,これから仲良くしようとお誓いし,顔を見せにいった。増本先生,麻溝学校校長先生のお話,それから私が代表の言葉を読んで,麻溝学校生徒代表(男)のあいさつが終ると,両校,中を向いて礼をした。(以下略)
9月5日(火) 晴れ
午後1班2班,関山さんへ,なすとかぼちゃを取りにいった。朝くしで髪をとかしたら,しらみがくしについていた。
9月28日(木) 晴れ
午後から5・6年勤労作業にお寺(無量光寺)のまき運びにとても遠い所へ行って,夜おそく帰った。
11月7日(火) 晴れ
今日から勤労奉仕がはじまり,お寺のそばの山の畑の草むしりをし,さつまいも2つ,大豆の煮たのをくださいました。
警戒と同時に空襲となり,急いでお寺に帰って,裏のお墓のかげへ待避しました。
疎開児童
米軍機の来襲
1944(昭和19)年11月から,米軍(アメリカ軍)のB29の爆撃による日本各地への爆撃がはじまりました。相模原にはB29の爆撃による被害は,ほとんどありませんでしたが,1945(昭和20)年2月17日午前10 時ころ米軍の小型機が来襲し,麻溝の民家が焼夷弾(しょういだん)で焼けました。
敵機の来襲に備えて,全国各地に監視所(かんしじょ)が作られ,相模原では,町役場の屋上に上溝監視哨(かんししょう)を設置し, 哨長(しょうちょう)以下36名が交替で監視にあたりました。上溝監視哨は敵機の発見が優秀であったので表彰されました。
一方,本土空襲が激しくなるにしたがって,被害を避けるために工場施設の一部を分散させることにしました。川尻国民学校では,1945(昭和20)年4月,校舎の一部が軍需工場に使われました。さらに陸軍の高射砲部隊(こうしゃほうぶたい)も駐屯(ちゅうとん)するようになりました。
つらかった真夜中の監視
編成は5班まであり,班の人員は副哨長以下6名でした。一昼夜交替で,監視は2名が1時間交替で行いました。
仕事は,いち早く敵機を発見し,進行方向・機種・機数・高度などを,ただちに厚木の監視所へ電話で報告することでした。
夜間とか雲の中の時は爆音で高度を判断しました。夕方,6時ごろになると厚木の監視隊から,南方海上に敵機北上中との連絡があり,その夜は必ず敵機が来ました。
つらかったことは,真夜中の監視でした。寝ぼけまなこで監視台に登るはしごを踏みはずして落ちたことがありました。また,夜明けの寒さは非常にからだにこたえました。
楽しかったのは,仲間と気が合って仕事ができたことと自炊での食事でした。当時なかなか食べられなかった肉などが食べられたことです。
元監視哨員
佐藤儒弘さん・金子久男さん 1992(平成4)年談
本土決戦に備えて
1945(昭和20)年2月に硫黄島が,同年6月には沖縄が,米軍に占領されました。
いよいよ本土に戦場が迫ってきました。米軍は,九十九里浜か相模湾に上陸してくるものと考えられました。全国各地では本土決戦に備えて,国民義勇隊(ぎゆうたい)の編成が行われました。
相模原町では,隊長に篠崎太一町長がなり,各出張所管内に中隊,各地区に小隊という編成をしました。50人以上の人数をもつ役所・会社・工場などには,その職場ごとに職域国民義勇隊が作られました。
上溝の久保には,相模湾上陸防衛工作部隊が駐在して,防衛用の木材の切り出しを行っていました。また,中津飛行場を守る第13332防衛隊が結成され,その一部の隊が上溝国民学校にいました。隊員は350名ほどで,40歳前後の在郷軍人で編成されていました。
1945(昭和20)年5月には,18〜20歳の人を中心に上溝防衛隊が作られました。本部を上溝高等女学校(今の上溝高校)に置き,隊長は井上隆雄中尉,隊員は350名ほどでした。軍事訓練をするにも武器はなく,各人が竹やりを作り,それで訓練をしていました。敵が来たら,老人・女性・子どもを相模川対岸の小倉山へ逃がすことくらいしか当時は考えられていませんでした。
相模原における第二次世界大戦の戦没者
※戦没者は「日中戦争」「太平洋戦争」を通しての総人数で,慰霊塔などの記録による。
※終戦時の人口が不明のため,昭和21年4月1日の人口にした。
参考
※城山地区では,日露戦争〜太平洋戦争において,116名以上の戦没者を数えた。
※津久井地区では,日清戦争〜太平洋戦争において,749名以上の戦没者を数えた。
※相模湖地区では,日中戦争・太平洋戦争において,247名以上の戦没者を数えた。
※藤野地区では,西南戦争〜太平洋戦争において,237名以上の戦没者を数えた。
※上記の「参考」の戦没者数は,慰霊塔などの記録によるものである。
調べてみよう「戦争体験談から学ぶ」
「私たちの相模原」では,様々な資料や後日談などをもとに,当時の人々の生活についてできる限り多くとりあげました。これは,悲惨(ひさん)な戦争の記憶がしだいに薄らいでいくなかで,中学生である君たちに,戦争の時代の苦しい国民生活を知り,平和の大切さを考えてほしいからです。この悲惨な戦争時代を体験した方々から,その体験談を直接お聞きする機会も私たちにとって貴重な学習の場の一つです。身近な人びとに,戦時中のようすを聞いてみましょう。
Q1 戦争中の生活や世の中のようすを調べる方法を考えてみよう。
①お年寄りから実際に戦争の話を聞く。
②市立博物館をはじめ,地域の施設で戦争のころのようすを伝えるものや展示物を探して調べる。
③相模原市以外の地域にも,郷土資料館や平和記念館などがある場所も全国にあります。旅行などで出かけたときに,調べる機会があると思います。
④戦争に行った方の体験集や証言集,写真などで調べる。
⑤図書館に行って戦争中の資料や読み物から調べる。
⑥インターネットを利用して調べてみる。
Q2 あなたも実際に戦争を体験した方々から話を聞いてみよう。
○地域や近所の方,老人クラブ,家や親戚におじいさんやおばあさんがいれば,体験談を聞くことができるかもしれません。
○年齢は,いくつぐらいの方に,どんな体験を聞いたらよいだろうか?
予想
現在の年齢が( )歳くらいの人なら,戦争当時は( )歳くらいなので,( )な体験をしていると思われます。
例‥‥戦地で・空襲で・学校で・疎開先でなど
○戦争を体験した方が身近にいないようならば,公民館等で紹介してもらうこともできます。
ポイント
①準備の面で
・聞きたいことをまとめておく。
・事前に,連絡をして聞きたいことを伝えておく。
②マナーの面で
・相手の方にとってつらい思い出になる場合もありますので,充分(じゅうぶん)な配慮(はいりょ)が必要です。
③学び方の面で
・自分の思いをまとめてみよう。
・体験談を聞いて自分はどんなことを感じたのか,感想をまとめて発表会などでクラスのみなさんに聞いてもらったりレポートにまとめてみよう。また,学習が終わったら,学習したことや自分の感想を書いたお礼の手紙を出しましょう。
ヒント
・昭和10(1935)年以前に生まれた方は,何らかの戦争体験をもっていると考えられます。
相模湖・ダムの建設
増加する京浜地域の水需要をまかない,併せて貯水を利用した水力発電により電気需要もまかなうため,相模湖・ダムの事業計画が県議会に提出されたのは,1938(昭和13)年のことでした。日中戦争が始まった翌年のことです。先祖伝来の土地が湖底に沈むことになるため,ふるさとから離れなければならないので,日連(ひづれ)村勝瀬(かつせ)地区の村人など,村々で反対の機運も高まりました。しかし,当時の知事による「…本事業は,時局柄(じきょくがら)重大性のあることを諸君も充分認識せられ,愛国心を持って協力されたい。…」という説得や軍部の実力者である荒木貞夫(さだお),杉山元(はじめ),小磯国昭(くにあき)らが村々を練り歩くという示威(じい)行動もあって,村人たちは反対を続けることもできず,現在の海老名市などへ移転することが決まりました。中には戦争から生きて帰って来たら,ふるさとや我が家はダムの底だったということもあったそうです。建設工事は1941(昭和16)年に始まり,やがて戦局悪化のなかで労働力不足を補うため,学徒動員や自主的に来日してきた朝鮮人,さらに強制連行された韓国・朝鮮人や日中戦争での捕虜(ほりょ)も工事に動員されました。中国人捕虜の強制労働は,1944(昭和19)年4月から始まりました。
相模湖・ダム
中国人捕虜の出身地は,河北(かほく)省・山東(さんとう)省が中心で,主に八路(はちろ)軍(人民解放軍)の捕虜です。過酷な労働と栄養失調により,1945(昭和20)年7月までに28人が死亡しています。韓国・朝鮮人の死亡者も18人以上とされ,工事での全死亡者は83人を数えています。
こうして,戦中・戦後の物資不足など多くの悪条件を克服し,6年の歳月をかけて1947(昭和22)年に相模湖・ダムは完成しました。
その後,工事で亡くなった方々の慰霊(いれい)のため,1979(昭和54)年7月に第1回相模湖合同慰霊祭が催され,その後も毎年7月の最後の日曜日に開催されています。
ダム建設殉職者の慰霊塔
第8章 戦後の相模原
陸軍の軍都から米軍基地の町へ,そして,内陸工業都市・住宅都市へと,戦後,私たちの郷土「相模原」は飛躍的に発展しました。
しかし,あまりにも激しい変化のため,市民の生活には様々な問題が生じました。
1 敗戦と基地の町
いものつるも食べた戦後の相模原
1945(昭和20)年8月15 日,わが国はポツダム宣言を受諾(じゅだく)して無条件降伏し,連合国軍の占領下におかれました。
戦時中は空襲を受けたものの大きな被害がなかった相模原ですが,人々のくらしは,その日の食べ物にもことかく状態でした。戦時中から代用食(だいようしょく)に慣れていたとはいえ,さつまいもが主食となり,ハコべ,アカザ,ノビルなどの雑草やさつまいものつるまで食べなければならないときもありました。それでも食糧事情は他の地域よりも良い方で,東京・横浜方面から,着物などを持って,さつまいもと交換するために相模原へやって来る人がたくさんいました。
マッチや石けんなどの日常生活品も極端に不足しました。衛生状態はきわめて悪く,ノミやシラミが大発生し,発しんチフスなどの伝染病が流行しました。これを防止するため,米軍からDDT と呼ばれる白い粉の殺虫剤が,町役場や学校に配布され,これを頭からふりかけられる光景もしばしば見られました。
買い出し
終戦直後の生活
終戦当時,私の住んでいた東林間付近は水道新開と呼ばれ,雑木林がえんえんと続き,道らしい道もなく,今もある水道道路がメインストリートになっていました。人家も15・6軒ほどで,ほとんどが農業をしていました。当時の東林間駅は,ホームがあるだけの殺風景な駅で近くには小さな牧場もありました。
私の家は比較的大きな農家でしたので,自分の家でとれた米・麦・さつまいもなどを食べることができ,食糧には恵まれていましたが,よそから疎開してきた人の中には,雑草などを食べていた人もいたようです。余っていた米は,政府への供出(きょうしゅつ)がきびしく,10アールあたり3俵から4俵半くらい供出しました。
ザラメの砂糖,大豆・グリーンピースの缶づめが配給されましたが,砂糖などはめったに口にすることはできませんでした。
また,小田急線を使い,東京方面から衣料品や配給品を持って,私の家にも買い出しに来る人もいました。当時,毛布は貴重品でしたが,毛布一枚とリュック1杯のさつまいも(だいたい30kg)と交換したことを覚えています。何回となく訪れて顔なじみになる人もいました。
南区東林間 斎藤福光さんの話 1980(昭和55)年談
大きな影響を与えた民主化政策
こうした混乱のなかで,占領軍による民主化政策が相模原でもつぎつぎに進められていきました。1947(昭和22)年4月5日には,戦後初の相模原町の町長選挙が行われ,つづいて,4月30 日には町議会議員選挙が実施されました。
教育制度については,教育基本法・学校教育法の公布にともなって,1947(昭和22)年4月1日に10 の国民学校が小学校として発足,5月1日には9つの中学校(座間中を含む)が設置され六・三制が実施されました。
また,相模原の農村地域にもっとも大きな影響を与えたものに農地改革があります。これは農村の民主化と,農業生産増加のため自作農を増やすことが目的でした。この改革により,農村の地主制度は大きく変化しました。
農地改革
この改革により,一定の面積以上の土地を所有している地主から国が強制的に農地を買い上げ,それを安く小作農が買い受けることになりました。この結果,県全体の自作農は,全農家の77%になり,小作農は非常に減少しました。しかし,農地改革が進むなかで先祖伝来の土地を手離(てばな)すことになった地主の一部には強い不満が残りました。
陸軍軍都から米軍基地の町へ
戦時中は陸軍の軍都として土地区画整理事業を行い,人口10万人の都市に発展するはずの相模原町も,日本の敗戦とともにその方向を大きく変えることになりました。地域内にあった旧陸軍の施設は,平和的な産業に転換することもなく,一部が学校などの教育施設になっただけで大半は米軍に接収されてしまいました。
戦後の混乱のなか,海外から引き揚(あ)げてくる人びとも多く農業以外にはとくに産業らしい産業もなかったので,多くの労働者を必要とした米軍基地は失業者の救済に大きな役割を果たしました。
こうして,基地で働く労働者数も1950(昭和25)年に始まった朝鮮戦争をさかいにして,日増しに増えていき,ベトナム戦争が激しくなった1969(昭和44)年ごろには,約8,300名の人々が市内の基地で働いていました。
1950(昭和25)年当時の旧市内の米軍基地
※P211の現況図(現在の地図)と比べてみよう。
米軍基地での労働
私は相模総合補給廠(ほきゅうしょう)(当時は米陸軍横浜技術廠相模工廠(ぎじゅつしょうさがみこうしょう))が最初に募集を行った1950(昭和25)年から30年近くずっと基地で働いていました。この基地の任務は軍の生活必要物資を貯蔵し,補給するとともに車両や機械を修理することでした。私の仕事は米陸軍で使用される車両の修理で,M41・M48といった戦車から,ジープ,トラック,ブルドーザー,クレーンなどの工作建設車両,火炎放射器などを修理し,異常がないかテストすることです。ベトナム戦争が激しくなっていたころ,破損した戦車を修理しようとしたところ,なかから腐った腕が出てきたといううわさが広まり,びっくりしたことがありました。雇用条件も日本の企業と違って,すべてアメリカ式で当時としてはめずらしい週休2日制でした。また,職種によって賃金はいくらと決められていて,その中から自分の希望する職種を選ぶようになっていました。
私の場合は,Special Vehicle Repairman(特殊車両修理工)ということで民間の企業の1.5倍くらいの給料でした。
最盛時には相模工業の従業員をふくめて,約1万人の人が基地内で働いていたので,給料日ともなると,現在の矢部駅から淵野辺方面にかけて,露店商や屋台が立ち並らぶほど活気がありました。
中央区淵野辺
八木孝治さん 1980(昭和55)年談
修理を待つ戦闘車両
2 市制施行・町村合併と人口増加
町から市へ 相模原市の誕生
1950(昭和25)年に始まった朝鮮戦争は日本に特需(とくじゅ)による好景気をもたらし,敗戦後の混乱から立ち直らせるきっかけになりました。相模原でも,全国から基地労働者が集まり,人口が増加して活気をおびてきました。
また,軍都計画と並行して実施されていた神奈川県による「相模原都市建設区画整理事業」が1950(昭和25)年3月に完了しました。これによってJR相模原駅を中心に土地が整然と区切られ,広い道路が縦横に走るようになりました。こうした状況のなかで,市制施行の気運が高まり,10月に市制促進委員会が発足しました。これより先,1948(昭和23)年に座間町が相模原町から分離[資料1][資料2]しました。
「中心市街地の形成が第1条件」
市制促進委員会の報告では「人口7万を数え,年間予算規模が1億5千万円に達しながら,相模原町が市制を施行できないのは市になるための第1条件となる中心市街地をもっていないからである」と指摘しています。このため橋本,相模原,淵野辺,上溝を結ぶ三角形を中心市街地にし,まわりの各地区から中心街をめざして発展させようとしました。
1953(昭和28)年には町村合併促進法が公布され,全国的に市制施行ブームがおこりました。
相模原町でも,1954(昭和29)年4月,町役場本庁舎を上溝から現在地に新築移転し,町議会にも市制研究会が発足して,市制にふみきる準備を進めました。市になるには,地方自治法及び神奈川県条例に定められた条件を満たさなければなりません。
法律及び県条例に定められた市となる要件と当時の相模原町の状況
1954(昭和29)年5月1日現在
◎人口5万人以上を有すること ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥79,103人
◎市街地形成の戸数が全戸数の6割以上であること ‥‥‥‥‥‥‥‥48.25%
◎商工業等の都市的業態に従事する者が6割以上であること ‥‥‥‥‥61. 8%
◎高等学校又は中学校が3校以上設けられていること‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥高等学校4校 中学校8校
◎ 官署又は公署が5以上設けられていること‥‥‥‥‥‥‥郵便局7 国鉄駅10 警察署1 その他の官公署27
◎ 図書館,博物館,公会堂,公園等の施設が3以上設けられていること ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥図書館1 公民館11
◎ 病院,診療所,劇場,映画館等の施設が相当数設けられていること
病院5 診療所3 医院25 歯科医院その他20 劇場映画館5
◎ 商工業等の都市的業態に従事する者が最近5か年間増加傾向にあること
25年(50.2%) 26年(51.5%) 27年(55.8%) 28年(58.2%) 29年(61.8%)
相模原町の各所で「市制についての町民のつどい」を開き,住民の意向をつかんだのち,町議会8月臨時会に市制施行の議案が提出されました。その結果,全議員の賛成で市制施行が決定しました
緑の多い田園都市をめざして
相模原町議会における清水睦町長の提案理由要旨
緑を多く包含した田園都市の構想をもとに,湘南6市とはちがった県北における特色ある都市を形成したい。工場誘致は努力しているが,今のところ条件が整わず困難である。そこで勤労者のための団地計画による住宅政策に重点をおき,これらを対象とする商業政策は中心街重点主義ではなく,現在の商店街を特色あるものに成長させたい。農業については,主食中心主義から立体農業(※)に転換をはかっていきたい。
※多角的農業と考えてよい。
こうして,1954(昭和29)年11月20日,県下10番目の市として相模原市が誕生しました。当時の人口は約8万人,予算規模は約2億2千万円でした。
新たな町村合併の動き
一方,町村合併促進法は,津久井郡域における町村の合併についても加速させました。
1954(昭和29)年2月,与瀬(よせ)町・小原(おばら)町の2町と千木良(ちぎら)村・内郷(うちごう)村の2村による相模湖町が誕生しました。
また,同年に小淵(おぶち)村・沢井(さわい)村の2村と合併していた吉野(よしの)町は,翌年6月には牧野(まぎの)・日連(ひづれ)・名倉(なぐら)・佐野川(さのがわ)の4村を加え,新たに藤野町としてのスタートを切っています。
また1955(昭和30)年4月,川尻(かわしり)・湘南(しょうなん)・三沢(みさわ)(中沢地区)の3村により,城山町が誕生しました。さらに同年同月には,中野(なかの)町と串川(くしかわ)・鳥屋(とや)・青野原(あおのはら)・青根(あおね)・三沢(みさわ)(三井(みい)地区)の5村が合併して津久井町が誕生しました。
発展の契機となった首都圏整備法
村から町,町から市へと発展を続けてきた相模原はようやく新興都市として注目されるようになりました。ところが,肝心な市財政は市の仕事が増えたのに比べて貧しい状態でした。そこで市税の増収をはかるために,1955(昭和30)年7月に「工場誘致(ゆうち)条例」を制定し,積極的に工場誘致を進めました。これによって,カルピス食品工業など5 社が1956(昭和31)年までに市域への進出を決めました。
一方,首都東京は人口と産業が集中し過ぎて,深刻な住宅難や交通渋滞を招くようになりました。このため,1956(昭和31)年4月に首都圏整備法が制定されました。
相模原市は東京駅から40㎞圏内にあり,しかも平坦で広大な土地と交通の状況は,市街地開発区域として絶好の条件を備えていました。さらに,相模原市の都市計画事業は市単独で行うにはあまりにも財政負担が大きすぎるので,市街地開発区城の指定を受けるために強力な運動をしました。
首都圏(100㎞圏)の範囲
首都圏整備計画の構想
首都圏整備法は首都東京の過剰人口を工場,学校などの施設とともに合理的に分散配置して,首都東京をスッキリとした近代都市に建て直すと同時に,東京とその周辺を開発整備しようとするものでした。首都圏の構想では東京駅を中心に100km圏内に含まれる地域を「既成市街地」「近郊地帯」「市街地開発区域」の3つに分けています。
「既成市街地」
東京駅から15km以内の地域で工場や学校などの新設や増設を制限するとともに,人口密度と土地の利用を適切にするために建築物を高層化するなどして,過密都市の弊害(へいがい)を除く整備計画を進めていきます。
「近郊地帯」
既成市街地の外側10kmまでの地帯で既成市街地が無秩序に伸びるのをおさえるための緑地帯(グリ-ンベルト)の性格をもった地帯です。ここは公園,学校,病院,研究施設,社会福祉施設など自然環境にあった施設や緑地を設けます。また,新鮮な野菜などの生産地帯として農地を保存し,原則として住宅団地や工場は設置できないことになっています。
「市街地開発区域」
近郊地帯の外側で東京駅から25km以上離れている地帯で,工業都市,住宅都市として適当な在来都市を市街地開発区域(衛星都市)として指定するものです。ここでは新たに工業都市化を図るために,工場立地の条件を整備し,住宅地を開発します。また,これらに関連して街路の舗装(ほそう)化,公共施設の整備拡充などが実施されます。したがって,首都東京のかかえている過剰人口の悩みを考えると,この衛星都市の育成策は,この法律の最も重要なポイントといえます。
以上が首都圏整備計画のあらましですが,事業の実施にあたっては,該当する地域に対して,国が財政援助を与えていくことになっていました。
その結果,1958(昭和33)年8月に第1号の指定を受け,首都圏整備計画にもとづく市街地開発計画がつくられました。これによると相模原市の1975(昭和50)年の計画人口を20万人とし,市内各地域を市街地部と農村部に大別し市街地部は工業・商業・住居の各用途地域に定めました。
市制施行時は困難だった工場誘致も,この指定によって順調に進み,相模原市は県北における内陸工業都市として注目されるようになりました。
この頃,神奈川県は需要(じゅよう)が増した工業用水や農業用水,急増する県民のための水道水確保などのため,城山ダム(津久井湖)の計画を打ち出しました。反対運動も起こりましたが,やがて移転地や補償(ほしょう)の問題が話し合われ,1963(昭和38)年には水没する世帯のすべてと移転地や保証金などに関する契約の調印が終了しました。一方で城山ダム建設工事は,すでに1961(昭和36)年から始まり,1965(昭和40)年に城山ダムが完成して翌年5月には津久井湖は満水となりました。
人口急増期の相模原
農村地帯から内陸工業都市・住宅都市をめざして発展を続ける相模原市は,1960年代から人口増加率が年間10%を超えるようになりました。
市街化が進む相模原駅周辺 1968(昭和43)年頃
そして,1965(昭和40)年4月には人口が15万人を突破し,1967(昭和42)年8月には,はやくも20万人を超える都市になりました。
人口は都市をかたちづくる重要な要素ですが,急激な増加は教育,下水道,ごみ,道路など,いろいろな面で市民の生活にマイナスになります。首都圏整備計画も,人口や産業の集中があまりに激しかったために,1965(昭和40)年に改正され,相模原市は「近郊整備地帯」になりました。それをうけて相模原市では1968(昭和43)年に国や県の計画にもとづいて「相模原市総合計画」をつくりました。
それは1985(昭和60)年の人口を48万人と予想し,将来の都市像をたくましい50万都市相模原市」としたものです。
総人口と増加人口の推移 1975(昭和50)年まで (各年10月1日市統計書)
しかし,国の高度経済成長政策は,都市部への人口の集中をさらに激しくし,相模原市の人口増加は予想をはるかに上回ってしまいました。
1965(昭和40)年からの10年間に20万人もの人口が増え,市制施行当時から20年間でおよそ4.5倍にもなりました。このため,市民生活に必要な施設の整備が追いつかず,人口増加にともなういろいろな問題が起こりました。
1965(昭和40)年と1975(昭和50)年の国勢調査の人口ピラミッドを比べて,どのような特色が読みとれるでしょうか。考えてみましょう。
教育の面では学校建設が追いつかず,1974(昭和49)年当時,小・中学校42 校のうち15校が児童生徒数1,500人以上のマンモス校になり,教室不足を補(おぎな)うためにプレハブ校舎が建ちならぶ光景が見られました。
また,急激に住宅の建設が進んだため,道路や下水道が整備されず,大雨が降ると浸水する地域も増えました。
プレハブ校舎
浸水したニューサガミ団地(中央区淵野辺本町)
1972(昭和47)年7 月の集中豪雨
1972(昭和47)年7月12日の集中豪雨は313.5mmという降雨量を記録し,床上浸水など多くの被害を残しました。そして三日後の15日にも159.5mmの豪雨にみまわれました。
12日の集中豪雨で全壊家屋(ぜんかいかおく)1棟,床上浸水家屋439棟,床下浸水家屋1,094棟,その他河川の決壊(けっかい),道路や田畑の冠水(かんすい)などの被害を受けました。
この原因はもちろん記録的な豪雨によるものとはいえ,境川の未改修,下水道設備の未整備,それに急激な住宅開発などがあげられます。とくに被害が大きかった境川沿いの住民からは,一日も早く河川を改修し,下水道を整備して,安心して生活できるようにとの強い要望がありました。
舟が主役となった翠(みどり)が丘の救助作業(南区相南)
朝の通勤風景(昭和44年相模原駅)
ごみも増え,市の焼却施設では間にあわず,他市に依頼したり,麻溝台のくぼ地に埋め立てて急場をしのいだりしました。
交通事情も悪化し,幹線道路は渋滞し,横浜線や小田急線の電車は定員をはるかに超える通勤・通学客で混雑しました。
相模原市の財政能力ではこのような問題をすべて解決することは難しく,人口増加がそのまま市の発展にはつながらないことがわかりました。そこで相模原市では,1974(昭和49)年に将来の都市像から,50万人という目標人口を外し「たくましい市民のまち相模原」と変更しました。
また,1975(昭和50)年3月に『こども急増びんぼうはくしょ(相模原市財政白書)』を発行し,市の財政の苦しさを広く国や県及び市民に訴えました。
こども急増びんぼうはくしょ
急激な人口増加は地方財政上多くの問題を投げかけており,学校,清掃,下水道等の整備さえも自治体の限界を超えたものになっています。
市民の平均年齢が28歳と若い相模原市は,児童生徒の増加も激しく,毎年数校の学校建設に追われており,一般家庭にあてはめていえば「子ども部屋づくりに追われる安サラリーマン」の姿そのものといえます。
このような人口急増化にあって義務的施設の整備もまかなえないのが実情であります。
(1975(昭和50)年 河津勝市長の報告より)
こども急増びんぼうはくしょ(相模原市財政白書 人口急増問題特集)」の表紙
3 基地返還運動
米軍基地返還総決起大会後,市長を先頭にデモ行進 1969(昭和44)年
都市計画の障害となっている米軍基地
市内にある米軍基地は,敗戦後の混乱した時代には,失業者対策の役割を果たしました。
しかし,相模原市が発展するにつれて,基地周辺も都市化が進み,様々な障害があらわれてきました。特に,相模総合補給廠(ほきゅうしょう),米陸軍医療センター,相模原住宅地区(米軍ハウス)は駅周辺の市街地に位置しており,道路なども大きくう回しなければならないというように,都市計画上の大きな障害になってきました。
基地に関連して起きたことに,1960年代(昭和30年代後半から40年代前半)の「キャンプ淵野辺電波障害制限地域設定問題」があります。
これに対し市民は総決起集会を開き「市電波障害制限地区指定反対実行委員会」を結成して,ねばり強い反対運動を展開した結果,この問題は次第に消滅しました。
電波障害制限地域の設定問題
電波障害制限地域の設定とは,米軍の通信基地であるキャンプ淵野辺の電波が障害を受けないように,木造建築物の高さは6m以内,自動車の通行は1時間に5台以内など様々な制限を受けるというもので,1967(昭和42)年12月の新聞で報道されると,市民の間でたいへんな話題となりました。
基地返還運動
このようなことがきっかけとなって,1971(昭和46)年6月に米軍基地の早期返還と市民優先の跡地利用の実現を図るために「相模原市米軍基地返還促進市民協議会」が発足しました。これは市をはじめ,市議会,教育委員会,PTA,自治会連合会,労働組合など32団体が構成員となったもので,以後,国や米軍に対する抗議・要請や,市民へのPRなどの活発な運動を展開しました。
これに先がけて,市では,当時5か所532haに及ぶ米軍基地の跡地について,将来は緑地や公園が極端に不足するという見方から,基地の自然景観や緑地をできるだけ保存し,活用していく方向で利用計画を作成しました。
市では,この「米軍基地跡地利用計画書」を当時のニクソン大統領はじめ日米両政府の関係機関に送り,実情を訴えました。
市民総決起集会 1971(昭和46)年
また,1972(昭和47)年にはベトナム戦争で使用される戦闘車両が相模総合補給廠(ほきゅうしょう)から横浜ノースドックへ運ばれるという問題が起こり,同廠正門周辺は,戦闘車両の搬送を阻止しようとする団体等に1か月にわたり占拠(せんきょ)されたため,全国的な関心を集めました。
この年には,当時の佐藤総理大臣と,ニクソン米大統領が会談し,米軍施設の整理統合についての協議が行われました。こうした日米両政府の動きに加え,粘り強い基地返還運動によって,日本国内の米軍基地は,大幅に整理統合され,市内の基地も整理縮小されていきました。
米軍基地の返還と跡地利用
このようななか,1974(昭和49)年11月にキャンプ淵野辺(66.3ha)が全面返還されました。
キャンプ淵野辺の跡地利用について,市は県とともに,緑を活用したスポーツ公園と県立高校を含む教育施設の設置を強く望んでいました。その後,国の利用や「有償三分割処分」をめぐって数多くの交渉がもたれました。
跡地には現在,小学校1校,中学校2校,高等学校1校,国民生活センター,JAXA(宇宙航空研究開発機構)相模原キャンパス,淵野辺公園,近代美術館フィルムセンター,市立博物館などがあります。 また,留保地は「さがみ風っ子展」や防災訓練などの会場としても活用されています。
さらに「相模原市米軍基地返還促進市民協議会」を中心に,市民総ぐるみの返還運動を進めていた相模大野の米陸軍医療センター(19.8ha)が,1981(昭和56)年4月に全面返還されました。
「有償三分割処分」
大蔵省の方針発表
当時の大蔵省(現在の財務省)は国有地処分のうち,基地跡地については,全国統一基準をもうけました。10ha以上の跡地は三分割して,そのうち約三分の一を国の利用,三分の一を地元の県・市の利用,残りの三分の一を将来のために留保する(留保地)というものです。しかも,三分の一の地元利用部分は無償で使用させるのではなく,原則有償で処分しようとするものでした。
これに対して市では,基地の存在による地元の犠牲や市民の苦悩,市の将来計画を全く無視するものだとして,20万人近い署名を集めて反対しました。
キャンプ淵野辺有償三分割反対集会(昭和51年)
この跡地には,現在,中高一貫校,相模大野中央公園,相模女子大学グリーンホール,相模大野図書館,南メディカルセンター,都市型百貨店,外務省研修所,国家公務員宿舎などがあります。
また,2006年(平成18)年5月に開催された日米安全保障協議委員会の在日米軍編「最終報告」において,相模総合補給廠の一部返還(約17ha)と共同使用(約35ha)が承認されました。その後,一部返還の条件とされていた米軍住宅の移設,境界フェンスの設置などが行われ,2014(平成26)年9月に約17ha が返還されました。
また,2015(平成27)年12月には国,米軍との協議が整ったことにより,共同使用が開始されました。
今後,この返還地や共同使用区域を活用した相模原駅周辺地区のまちづくりを進めていきます。
基地跡地の現在と将来
現在の返還地
将来の返還地
※「将来の返還地」はイメージで、今後変更になる可能性があります。
調べてみよう「現在の基地の面積はどのぐらいあるだろうか?」
Q1 キャンプ淵野辺の跡地の利用を新旧の地図と比較して調べてみよう。また実際に歩いてみよう。
Q2 現在の「相模総合補給廠」の面積と比較して下の①②の広さはどのくらいなのだろうか。
「相模総合補給廠」の面積はどのくらいの広さなのだろうか?下の面積図に着色してみよう。
ア.約115万平方メートル イ.約196万平方メートル ウ.約315万平方メートル
①市立小・中学校の総敷地面積はどのくらいの広さなのだろうか?下の面積図に着色してみよう。
‥‥約( )平方メートル
②自分の学校の敷地の面積はどのくらいの広さなのだろうか?下の面積図に着色してみよう。
‥‥約( )平方メートル
相模原市の米軍基地現況図 2016(平成28)年3月31日現在 ※図は、旧相模原地域
※1950(昭和25)年当時の「旧市内の米軍基地」の地図(P193)と比較してみよう。
4 新たな相模原へ
中核市へ
1987(昭和62)年に人口が50万人を超えた相模原市は,市民サービスの充実等を図るため,1993(平成6)年に制度化された「中核市」への移行に取り組みました。しかし,中核市の要件のうち,人口(30万人以上)は満たしていましたが,面積(100㎢以上)は満たしていなかったため,長らく中核市指定を受けられませんでした。しかし,2002(平成14)年に法律が改正され,面積要件がなくなったため,2003(平成15)年4月1日から中核市になりました。これにより1,000を超える行政事務が神奈川県から移譲(いじょう)され,スピーディできめ細かな行政サービスの提供が可能となりました。
新相模原市へ
1999(平成11)年に改正された合併特例法により,全国的な市町村合併の動きが活発になるなかで,相模原市と津久井郡に属する4町との間でも合併に向けた取り組みが活発になりました。
この結果,2006(平成18)年3月20日,相模原市と津久井町・相模湖町が合併し,さらに2007(平成19)年3月11日には城山町と藤野町も加わって面積約329k㎡,人口約70万人の新しい相模原市が誕生しました。
この大規模な合併によって都市の規模が拡大したことから,相模原市は,大都市特例の適用により,一層自立的な行政運営を行える政令指定都市への移行に向けた取り組みを進め,2010(平成22)年4月1日「政令指定都市・相模原」が誕生しました。
第9章 相模原市の政治のしくみとはたらき
私たちの相模原市は,1954(昭和29)年11月20日に市制を施行しました。その当時の人口は,8万人あまりでした。人口は,2000(平成12)年には60万人をこえ,2006(平成18)年3月20日に津久井町・相模湖町との合併,2007(平成19)年3月11日に城山町・藤野町との合併を経て,現在では,72万人の全国18番目の政令指定都市となっています。
このような大都市に住む私たち市民の日常生活を支える市の政治は,どのようなしくみで,どのようにはたらいているでしょうか。
1 市民生活と地方自治
私たちと相模原市の政治
私たちの生活と「市の仕事」は深いかかわりがあります。私たちが通っている学校は,相模原市立○○中学校というように市立の学校です。
また,図書館や公民館なども市がつくり,市が運営しています。このように学校教育や社会教育にかかわる仕事,博物館や遺跡の保存などの仕事も「市の仕事」です。
また,様々な制度や施設などにより,高齢者や障害者の生活を支援したり,子どもを預けて安心して働けるように保育所を運営するといったような福祉の仕事や,市民の健康を守る検診や検査などの保健所の仕事も「市の仕事」です。
このほか,ごみの処理や道路,下水道の整備などの市民のくらしをささえる仕事,公園や市街地の整備などの生活環境を向上させるための仕事,産業を育成する仕事,消防の仕事などがあります。
このように私たちの生活は市の仕事や政治と深く結びつき,市と市民が協働して,住みよい豊かなまちづくりに取り組む機会も多くなっています。これらの市の仕事はどのように行われているのでしょうか。
市の仕事は,市民の代議機関である市議会の議決を経て,市長の責任で行われています。市の仕事に要する経費の大部分は市民の負担している税金によってまかなわれています。市民は,市の政治に対して常に関をもち,相模原市民の一員として,地方自治に参加する姿勢が大切です。
政令指定都市になった相模原市
全国には,約790の「市」がありますが,人口が1万人に満たない市から300万人を超える市まで様々です。
このようなことから「市」の仕事を一律に定めるのではなく,人口や面積が比較的大きな市には,都道府県から事務の移譲を受け,住民に身近な「市役所」で多くの仕事ができるようにするため,政令指定都市や中核市,施行時特例市といった制度が設けられています(注1)。
「政令指定都市」は法令で「政令で指定する人口50万人以上の市」と定められています。このほか,これまでの指定状況から,大都市としての実質的な要件である人口密度や産業別就業者比率が一定水準以上であること,県からの移譲事務を適正かつ能率的に処理できることなどが必要と考えられています。
「中核市」は「政令指定都市」に次ぐ権限のある市として人口20万人以上の市が対象とされており,全国で47市が指定されてます。(注2)
私たちのまち相模原市も2003(平成15)年4月1日から中核市となりました。その後2006(平成18)年3月,2007(平成19)年3月の市町合併により人口70万人を超える全国有数の都市となり,2010(平成22)年4月から政令指定都市へ移行しました。このことより,約1,100の事務が神奈川県から移譲され,きめ細かな市民サービスの提供や事務処理のスピードアップ,個性豊かなまちづくりを行うことができるようになりました。
(注1)神奈川県内では,政令指定都市は横浜市,川崎市,相模原市,中核市は横須賀市,施行時特例市は平塚市,小田原市,茅ヶ崎市,厚木市,大和市が指定されています。
(注2)2016(平成28)年10月現在の指定状況
地方自治と選挙
地方自治とは,地域の政治について,地域住民がその責任と分担において,自主的に行っていくことです。このような方法により,地域の実情に合った政治が行え,住民の意思を生かすことができます。
また,憲法では,地方公共団体の長(首長)と議会の議員は,その地域の住民の直接選挙によって選出すると定められています。
※①市長選挙の立候補届出日…………平成27年3月29日(※④選挙運動期間14日間)
※②市議会議員選挙の立候補届出日…平成27年4月3日(※③選挙運動期間9日間)
※選挙会とは,選挙長が開催し,開票管理者からの開票結果の報告を受けて,報告を調査し,各候補者の得票総数を計算して,当選者を決定する機関です。
相模原市の有権者数は,人口の増加とともに増え,平成28年12月現在で約59万8,000人になりましたが,残念なことに,選挙の投票率は,市政施行の頃に比べ,低くなっています。投票は市民の政治参加の第一歩であり,私たちの一票が相模原の未来を決めます。今まで以上に多くの若者の声を政治に届けられるように,平成28年7月10日執行の参議院議員通常選挙から,選挙権年齢が「満20歳以上」から「満18歳以上」に引き下げられました。皆さんも選挙権を大切にしましょう。
市役所前に設置されたポスター掲示場(平成27年統一地方選挙,市長・市議)
路線バス側面に啓発看板を掲出(平成27年統一地方選挙)
市議会(町議会)議員,相模原市長(町長)選挙
2 地方自治のしくみとはたらき
市議会の仕事とはたらき
選挙によって選出された市議会議員と市長は,私たち相模原市民の代表です。そして,市議会議員が集まって, 私たち市民の生活にかかわる市の条例や予算などについて,審議し決めていくところが市議会です。市議会は,議員の話し合いによって市政の方針・施策を決めていく機関であり,市長は決まったことを実際に進めていきます。このことから,市議会は「議決機関」,市長は「執行機関」と呼ばれます。
議場内の配置
市議会議員は,4年ごとの選挙によって選ばれます。条例で決められた市議会の議員定数は46人(緑区11人,中央区17人,南区18人)です。
また,市議会議員になることができる人は満25 歳以上の市民です。
市議会の仕事
市議会では,市民生活をよりよくするために,いろいろな議案について話し合います。市議会の具体的な仕事をみていきましょう。
■議決
市政を進めていく上で重要な案件については,市議会の決定が必要です。これを「議決」といいます。市議会が議決する主なものは次のとおりです。
○条例を定めたり,改正したりすること。
○予算を定め,決算を認めること。
○市の税金,使用料,手数料などを決めること。
など
特に「条例」は地域の住民にとって「法律」と同じはたらきをするもので,私たちの生活と結びつきの深いものです。
■選挙
議長,副議長,選挙管理委員会委員などを選挙します。
■市政のチェック
市政が正しく運営されているのか市の仕事を調査したり,問題点を指摘します。
■意見書の提出
市議会の意思として, 国会や関係行政機関に「意見書」や「要望決議」を提出し,市民生活にかかわりのある問題の積極的な解決を求めます。
私たちの生活とむすびつきの深い「市の条例」(抜粋)
○相模原市自転車等の放置防止に関する条例(平成元年6月30日 条例第25号)
第1条 この条例は,公共の場所に自転車等が放置されることを防止することにより,良好な生活環境を保持し,あわせて円滑な防災活動の場の確保を図り,もって公共の福祉の増進に寄与することを目的とする
第4条 市民は,自転車等の放置防止に関する意識を高め,この条例の目的を達成するため市が実施する施策に協力しなければならない。
2 駅又は停留所周辺の居住者は,当該駅又は停留所への自転車等の利用を自粛するよう努めなければならない。
第5条 利用者等は,自転車等を放置しないよう努めなければならない。
第8条 市長は,この条例の目的を達成するため必要があると認めるときは,自転車等の放置を禁止する必要のある公共の場所を自転車等放置禁止区域(以下「放置禁止区域」という。)に指定することができる。
第10条 利用者等は,放置禁止区域内に自転車等を放置してはならない。
第11条 市長は,放置禁止区域内に自転車等を放置し,又は放置しようとする利用者等に対し,当該自転車等を放置禁止区域から自転車駐車場その他放置禁止区域以外の適切な場所に移動するよう指導することができる。
2 市長は,放置禁止区域内に放置されている自転車等を,あらかじめ保管所として市長が定めた場所(以下「保管所」という)に移動することができる。
○相模原市ごみの散乱防止によるきれいなまちづくりの推進に関する条例(平成9年10月1日 条例第18号)
第4条 市内に居住する者は,きれいなまちづくりの推進について,連帯して意識の高揚を図るとともに,その居住する地域において行われる美化活動等に協力するよう努めなければならない。
2 市民等は,屋外で自ら生じさせた空き缶等及び吸い殻等を持ち帰り,又は回収容器,吸い殻入れ等に収納しなければならない。
3 市民等は,きれいなまちづくりの推進について,市が行う施策に協力しなければならない。
(投棄の禁止)
第7条 何人も,公共の場所等に空き缶等及び吸い殻等をみだりに捨ててはならない。
市議会の運営
議会は原則として公開で行われます。定例的に開く「定例会議」と,このほかに必要に応じて臨時的に開く「臨時会議」があります。特に毎年3月に開かれる定例会議は市政の方向を決める予算が審議される議会となり,9月の定例会議は前年度の決算を認定することが中心です。
議会審議の流れ図(定例会議)
委員会
議会で審議する議案は,数多く広い範囲にわたっています。本会議で直ちに決めることもありますが,全員で一度に審議するよりも,いくつかの部門に分けて詳しく審議した方が,効率もよく,より深く審議できることから,委員会が設けられています。委員会には常任委員会,議会運営委員会,特別委員会があります。
常任委員会
常に設置されている委員会で,相模原市議会には,次の5つの常任委員会があります。
○総務委員会・・企画,財務,税務,消防など
○民生委員会・・福祉,保健,衛生など
○環境経済委員会・・商工業,農業,環境など
○建設委員会・・都市計画,道路,住宅など
○市民文教委員会・・市民,学校教育,生涯学習など
議会運営委員会
議会運営や,議長の諮問事項などについて協議します。
特別委員会
必要に応じて設置される委員会で,特定の問題を調査研究しています。現在,次の5つの特別委員会が設置されています。(平成28 年5 月19 日現在)
○基地対策特別委員会…基地対策について
○交通問題特別委員会…公共交通の整備について
○水源地域対策特別委員会…水源地域の保全活用等について
○大都市制度に関する特別委員会…大都市制度に関する調査研究について
○広域交流拠点に関する特別委員会…広域交流拠点に関する調査研究について
○防災特別委員会…防災等に関する調査研究について
なお,決算を審査する9月定例会議には,決算特別委員会が設置されます。
請願と陳情
市民が市政などについて議会に直接要望できる制度が,請願と陳情です。
請願・陳情の手続き
議会に対する請願には,紹介議員の署名が必要です。署名のないものは陳情として扱われますが,陳情も請願と同じ扱いをしています。
提出された請願・陳情は,定例会議で,それぞれの委員会に付託され,慎重に審査し,本会議に報告され,そこで最終的な結論(採択・不採択)が出されます。採択された請願・陳情のうち,市の行政に関するものについては,市長あてに送付し,その実現を要望します。それ以外のものについては,関係機関に意見書や要望決議を提出したりします。
市長の事務
市長は,地方公共団体(市)の代表で,市議会で議決された事務などを行う執行機関の代表です。
執行機関は,市長のほかに,補助機関として副市長をはじめ,多くの職員がおかれており,市長はそれを指揮監督しています。また,執行機関は,事務と組織が系統的に決められています。
〜市長のおもな事務〜
○市議会の招集
○市議会への条例案,予算案などの議案の提出
○予算の執行
○税金の賦課,徴収
○副市長,一般職員などの補助職員の任命
○教育委員など行政委員の任命
副市長の事務
副市長の職務は,市長の補佐や市の職員及びその事務の監督のほか,市長の意向の範囲で,担当する分野に関して高度な政策判断を行います。
副市長は,市議会の同意を得て市長が選任し,任期は4年で本市の副市長の定数は3名となっています。
市役所窓口
行政委員会と委員
執行機関には,市長,補助機関の他に,市長から独立した地位と権限をもっている委員会・委員があります。これは中立の立場を保ち,住民の意思を反映するために設けられているものです。これらの委員会は行政委員会とよばれています。
相模原市には,教育委員会,選挙管理委員会,人事委員会,監査委員,農業委員会,固定資産評価審査委員会があります。
選挙の開票風景
●教育委員会
教育を中立公平なものとして保つため,独立の機関として設けられています。市立小・中学校の管理や教科用図書の取り扱い,学校給食,生徒の入学や転校など,学校についての事務のほか,社会教育やスポーツ,文化財などについての事務を行います。
●選挙管理委員会
選挙を公平に行うために設けられたもので,投票者の名簿の管理や選挙の準備,集計などの事務を行います。
●人事委員会
職員の採用試験や選考,給与等に関する調査研究等に関する業務を行います。
●監査委員
市の行政事務が正しく行われ,必要な経費が誤りなく支出されているかどうかを調査し,その結果を公表します。
●農業委員会
農地の利用や交換の調整,農業経営の研究などの事務を行います。
●固定資産評価審査委員会
固定資産課税台帳に登録された価格の不服申し立てについて,審査し決定します。
平成28年度行政機構図
調べてみよう「市議会をもっと知ろう」
市議会で話し合われていることは,私たちの身近な生活に関係することがほとんどです。どんなことが話題になり,どのように話し合いがすすんでいるのか,調べてみましょう。
Q1 今,市で問題になっていること,議論されていることは何だろう。
Q2 最近,制定された相模原市の条例は何だろう。
Q3 身近な地域で選出された議員はどのような発言をしているのだろう。
Q4 市長などの執行機関はどのような発言をしているのだろう。また,どのように政治をすすめようとしているのだろう。
Q5 市の税金の使い道はどうなっているのだろう。
~調べ方は~
実際に議会を傍聴したい → 本会議場へ
本会議は一般公開されており,だれでも傍聴することができます。
自宅で議会を見たい → インターネット放映(生中継・録画)
市議会ホームページでは,本会議及び委員会の模様を動画配信しています。
会議の詳細を知りたい → 会議録を
会議録は,市議会ホームページや各行政資料コーナー,市内の図書館,市立公文書館で見ることができます。
会議の概要を知りたい → 市議会だよりで
定例会議ごとに,新聞折り込みで各家庭に配布されているほか、まちづくりセンターなどの公共施設にも置いてあります。
第10章 相模原市の財政
私たちは先に,相模原市が広く市民生活の向上のためにいろいろな仕事を行っていることをみてきました。
相模原市では,どんな仕事にどのくらいお金を支出しているのでしょうか。また,そのための財源をどのようにして確保しているのでしょうか。
この章では,相模原市の財政についてみていきましょう。
1 財政支出と市民生活
拡大する財政規模
まず,下のグラフを見てください。
相模原市の財政規模の移り変わりを表したものですが,年々大きく伸びていることがわかると思います。
1965(昭和44)年度から2016(平成28)年度の間で,財政規模が約35倍にふくれあがっています。これは,相模原市の人口が急激に増加し,それにともなって市の仕事が大幅に増えてきた結果だと言えます。
相模原市財政の状況
財政支出の内訳
それでは,相模原市ではどんな仕事にお金を使っているのでしょうか。
2016(平成28)年度の一般会計当初予算で見ると,財政支出のなかで一番多いのは民生費で,全体の約47%を占めています。
歳出予算の内訳については下の表を見てください。子育て支援や高齢者・障害者福祉・医療のために多くのお金が使われていることがわかります。
歳出予算の内訳(平成28年度)
財政支出の内容
相模原市の財政支出についてさらにくわしく見ていきましょう。
民生費は,高齢者福祉や身体障害者福祉,保育所などのためにかかる経費です。相模原市では保健・医療福祉サービスの充実を進めているところですから,これからも民生費は大きな割合を占めるものと思われます。
老人ホーム(中学生との交流)
保育所
土木費は,道路・公園・再開発など都市環境の整備のためにかかる経費です。
衛生費は,し尿やごみの処理,予防接種など,市民の健康や衛生のためにかかる経費です。
乳児検診
教育費は,小・中学校や公民館の管理・運営や建設・維持など,学校教育や社会教育のためにかかる経費です。昭和40年代以後児童生徒数の急増にともなって校舎の建設に追われ,教育費がほとんど毎年度,相模原市の財政支出の中で大きな割合を占めてきました。しかし,現在は教育内容の質的な充実をめざしており,小・中学校への外国人英語指導助手の派遣や,校舎や屋外運動場の改築なども進められ,今まで以上にゆとりと潤いをもった教育環境の整備がはかられています。
2 財政収入と租税
財政収入の内訳
相模原市の財政収入は,どのようなものから成り立っているのでしょうか。
2016(平成28)年度の一般会計当初予算で見ると,財政収入のなかで一番多いのは市税で,全体の約40%を占めています。次に多いのは地方交付税交付金で,約25%を占めています。
歳入予算の内訳(平成28年度)
市税の種類
市税には,市民税・固定資産税・軽自動車税などがあります。これらの税は,市民の皆さんが納める税金です。
市税の種類
第11章 相模原の教育と文化
私たちが友だちとかかわり,そして学んでいる相模原の学校の歴史やこれからの学校教育について学習しましょう。
また,市民の教養や健康の充実をめざして進められている社会教育のあらましを知り,文化や生涯学習について考えを深めましょう。
1 学校教育の発展
新制中学校の誕生
太平洋戦争の終戦後には様々な改革が行われました。
学校教育でも1947(昭和22)年には学制の改革が行われ,六・三制が実施されました。小学校6年間と,新たに中学校の3年間が義務教育期間となったわけです。
相模原地域では,1947(昭和22)年に上溝,田名,大沢,旭,大野北,大野南,新磯,麻溝そして座間の9つの中学校が開校しました。1948(昭和23)年に相模原町から座間町が分かれたことから座間中学校は相模原から離れ,さらに1951(昭和26)年には新磯中学校と麻溝中学校が統合され,相陽中学校となりました。これらの学校の開校まもないときには,旧陸軍の施設を校舎にしたり,校舎の修理をみんなでおこなったり,さらに大切な食糧である「いもづくり」に明け暮れて,教科学習はあとまわしにせざるを得ないというのが実情でした。
新制中学校(旭中学校)
急増した学校
その後,相模原地域は,1954(昭和29)年に市制が施行され,さらに昭和30年代後半から急速な人口増加をみるようになりました。このため,新しい小学校・中学校が次々と生まれました。学校建設に追われるなかで,新設校の児童生徒が既設校とできるだけ同じ条件の下で学校教育が受けられるようにするために,様々な配慮がなされました。また,最近の校舎では,オープンスペースをとり入れるなど,いろいろな形の学習活動ができるよう工夫されています。
相模原市立学校数の推移
生徒増による中学校設置経過(例)
現在の相模原の学校
学校建設に追われた時期は昭和60年代に入ると終わりました。その後一部地域での児童数の減少と著しい増加による小学校の統廃合や新設,また,津久井地域との合併による小・中学校の増加がありました。現在,相模原市には,市立小学校が72校,市立中学校が37校あり,これらの学校では教育活動の質的な充実に一層力が注がれています。
また,市内には私立小学校2校,株式会社立小学校1校,私立中学校3校,県立中等教育学校1校,高等学校が19校(県立14校・私立5校),大学・短期大学8校,県立特別支援学校が3校あり,それぞれで特色ある教育活動が進められています。
質的な充実をめざして
相模原市では,現在各学校の校舎や体育館の改修を行うなど施設の充実に努めています。また,大型テレビなどのICT機器も導入され,情報教育だけでなく,学習の個別化・多様化が図られています。
大型テレビを活用した英語の授業
国際化時代を迎え,外国人英語指導助手とのティームティーチングも行われています。
その他にも地域の方に学校の教育活動に協力してもらうなど,教育内容を充実させるための努力が重ねられています。また,2014(平成26)年3月には,相模原市立の小・中学校が子どもたちにとって魅力ある学校となることをめざし,一人ひとりが心豊かで自立した人に育つことを願い「さがみはら 未来をひらく学びプラン後期実施計画」が策定されました。
ICT機器を活用した授業
コンピュータ教室を活用した授業
総合的な学習の時間における職場体験活動
地域の方々の協力によって行われる教育活動
2 社会教育の充実
生涯学習社会と社会教育
「生涯学習」とは,人々が生涯を通して行うあらゆる学習(学校教育, 社会教育,文化活動, スポーツ活動,レクリエーション活動,ボランティア活動,趣味など)について,様々な場や機会において行う学習です。
学校以外の場で行われる「社会教育」は,学校教育と並び非常に大切な学習の場や機会を提供しており, 相模原市では公民館や体育館, 図書館,博物館などの社会教育施設を順次整備してきました。
また「生涯学習社会」とは,生涯にわたって,あらゆる機会に,あらゆる場所において学習することができ,その成果を適切に生かすことができる社会であるとされています。相模原市では,学校教育とのつながりをはかるため,学校教育と社会教育両方の研究・支援機能をあわせもつ,総合学習センターを設置して,市民の学習の機会を充実していくように努めています。
社会教育の拠点 公民館
数多くある社会教育施設のなかで,もっとも地域に密着した施設が公民館です。公民館は,子どもから高齢者まであらゆる人に開かれた学習活動の拠点として中心的な役割を果たしています。
相模原市では,昭和24年に大沢公民館と上溝公民館が設置され,その後,続々と各地域に設置されました。現在では,旧津久井4町との合併により32の公民館が置かれています。相模原市の公民館は「地域性を重視する」という考え方から,地域ごとに特色ある活動が行われています。
公民館では,地域の課題や身近な生活課題を取り入れた講座や学級,スポーツ大会などを実施しています。
また,サークルや団体への部屋の貸し出し,学習に関する情報提供,相談などを通して,サークルや団体活動の活性化を図っています。これらは市民の教養の向上,生活文化や体育の振興に役立っています。
小山公民館
また,これらの公民館活動を通して,地域住民の交流やつどいの場として地域づくりの役割も担(にな)っています。
相模原市内の公民館分布図(平成28年4月1日現在)
公民館における活動の様子
地区体育祭
講座(家庭教育)
学級(高齢者学級)
青少年事業
学びの拠点 総合学習センター
総合学習センターは,生涯学習社会の実現のために,学校教育や社会教育に関する調査・研究・研修を総合的に行う場として,2001(平成13)年4月,市民会館の隣に開設されました。ここでは,小・中学校教職員の研修や学校教育・社会教育に関する調査と研究を中心に,市民の自主的な学びを支援するための各種講座,様々な課題を解決するための学習相談,教育相談などを行っています。
総合学習センター
なかでも「市民大学」は,1965(昭和40)年,市民の学習意欲に応えるため,全国に先がけて始まりました。ここでは,市内や近隣の大学等と連携して各学校の特色を生かした講座を行っています。内容は文学・健康・福祉・環境・美術・医療・パソコンなどの教養を深めるものや現代の社会問題についてなど,専門知識を幅広く,わかりやすく学ぶことができます。また「生涯学習まちかど講座」では,市民主催の学習会や学校の授業などに市の職員が出向き,市の仕事の説明や専門知識の講義を行うなどの事業が充実しています。
さらに,市立小・中学校や教育関係施設等を回線で結んで学校間ネットワークを運営しており,児童生徒や教職員,教育関係者が安心・安全に学習活動や学校業務に利用できる環境を提供しています。また,中学校版社会科副読本「私たちの相模原」や小学校版社会科副読本「さがみはら」などの学習用教材を作成し,学校教育への支援もしています。
施設としては,市民が有料で利用できる会議室,多目的室,和室があるほか,教育関係の書籍・資料が充実している図書資料室や図書閲覧室があります。交流ラウンジには,講座チラシや大学のパンフレット等が置いてあるほか,インターネット利用コーナーや,打ち合わせができるスペースもあります。また,市民が自ら創作活動の成果を発表できる作品展示スペースは,年間を通して活発に利用されています。
市民大学
生涯スポーツ社会の実現に向けて
スポーツは,私たちの「こころ」と「からだ」の健全な発達のために,欠くことのできない大切なものです。生涯を通してスポーツに親しむことは,爽快感や達成感,仲間との連帯感が得られるとともに,体力や健康が向上していくなど,とても大きな意義があります。
生涯スポーツ社会の実現に向けて,相模原市では,公益財団法人相模原市体育協会などを中心に,様々な種目のスポーツ大会や講習会を行っています。公民館などでも,スポーツ推進委員の人たちが積極的にニュースポーツを広めるなど,活躍しています。
また,相模原市では国内でトップレベルの活躍が期待できるチームをホームタウンチーム[資料1][資料2]として認定しています。現在は,ノジマ相模原ライズ(アメリカンフットボール),三菱重工相模原ダイナボアーズ(ラグビー),S C相模原(サッカー),ノジマステラ神奈川相模原(女子サッカー)の4チームが,相模原市のシンボルとなるよう日々活動しています。
充実する図書館
相模原に最初にできた図書館は,1949(昭和24)年に上溝駅近くに開館した相模原町立公共図書館です。1954(昭和29)年の市制施行により相模原市の図書館となり,1964(昭和39)年に名称を相模原市立図書館と改称しました。その翌年には,市民会館(中央区中央)に移転し,さらに,1974(昭和49)年に市制20周年を記念して,JR横浜線淵野辺駅近くに現在の建物が建設され,再度移転しました。
1979(昭和54)年には,相武台分館が民間から土地・建物の寄付を受けて,2番目の図書館として開館し,1990(平成2)年には,小田急線相模大野駅近くに3番目の図書館として,相模大野図書館が開館しました。この図書館は文化会館内の3階,4階に設置されています。そして,2001(平成13)年には,4番目の図書館として,JR横浜線橋本駅前の商業ビルの6階に橋本図書館が開館しました。
これらの図書館では,実用書から専門書までの多くの図書と各種事典・図鑑類,新聞・雑誌などを幅広く取り揃えて,市民の皆さんに閲覧や貸出し,また,いろいろな調べもののお手伝い,インターネットを利用したオンラインデータベースの情報検索,図書館資料の複写などのサービスを行っています。さらに,3つの大きな図書館では,CD・ビデオ・DVD等の視聴覚資料の貸出しや,視覚障害者の方への録音図書の貸出しなどのサービスも行っています。その他,おはなし会など読書に関する行事や講習会の開催,テーマに応じた資料の展示など様々な活動も行っています。
橋本図書館
各館の特色としては,市立図書館では,相模原市ゆかりの作家の著作物を集めたコーナーや多くの郷土(地域)資料の蔵書があり,2階には16ミリ映画や映写機・DVDなどの教材や機材の貸出し等を行う視聴覚ライブラリーを併設しています。相武台分館では子どもの本の収集に,また,相模大野図書館では子どもの読書普及活動に力を入れています。橋本図書館では,仕事をする人や会社を始める人の支援を目的に「ビジネス支援コーナー」を設置し,各種ビジネス関連資料を提供しています。
また,各図書館相互及び市内の公民館図書室や総合学習センター(図書室)の施設を図書館ネットワークシステムで結び,図書の配送システムを整えることにより,各施設で所蔵する図書の有効活用ができる体制を整備しています。このことにより,借りた本をどこの施設にでも返却することができ,予約・リクエストした本を希望する図書館・図書室で受け取ることも可能となっています。図書の予約については,館内OPAC(利用者用検索機)や窓口のほかに,図書館ホームページからも利用することができます。
図書館の蔵書数と貸出し者数(各数値は各年度末)
さらに,県内や町田市・八王子市・上野原市の公共図書館との広域利用のほか,市内や近隣市にある大学図書館との相互利用も実施しています。
2011(平成23)年3月には,家庭,地域,図書館,学校,関係機関等が一体となって子どもの読書活動を推進するため「第二次相模原市子ども読書活動推進計画」を策定しました。この計画に基づき,子どもの読書活動を応援するための様々な事業を開催するほか,職場体験・施設見学の受入や学校への図書セットの貸出しなど,図書館と学校等との連携を強化し,読書環境の整備を進めています。
郷土学習の拠点 博物館
市立博物館は,全面返還されたキャンプ淵野辺の跡地一角に1995(平成7)年11月20日に開館しました。考古・歴史・民俗・地質・動物・植物・天文の7つの分野を扱い,資料の収集・保存,調査・研究活動,展示や市民からの質問への対応を行っています。多くの市民に利用され,来館者は通算250万人を越えています。相模原の自然や歴史を学ぶ郷土学習の拠点として,博物館には次のような施設や設備があります。
自然・歴史展示室
「川と台地と人々のくらし」をテーマとし,展示は(1)台地の生いたち,(2)郷土の歴史,(3)くらしの姿,(4)人と自然のかかわり,(5)地域の変貌(へんぼう)の5つのコーナーで構成されています。相模原台地の生いたちから,現代に至るまでの地域の変遷(へんせん)と,ここに生きた人々の生活や自然について,実物資料を中心に時間の流れに沿って紹介しています。
天文展示室
「宇宙の中のわたしたち」をテーマとし,地球模型や太陽望遠鏡の映像などで地球と太陽の特徴を示すことにより,宇宙の中の私たちの所在を明らかにしています。また,隕石の実物なども展示しています。
特別展示室
特別展,企画展など,期間を限ってテーマを決めた企画展示を開催しています。
情報サービスコーナー
小・中学生向けの図書を利用したり,市内の様々な情報や動植物の生態,天文関連のビデオやDVD を視聴したりできます。
プラネタリウム
県内最大級の直径23mのドームでは,その日の星空と宇宙に関する最新の話題を説明する一般投影のほか,小・中学校の学習内容に沿った学習番組や幼児番組を投影しています。ドームいっぱいに大型映像を映し出す全天周映画も上映しています。
天体観測室
口径40cmの反射望遠鏡があり「星空観望会」などで一般公開しています。
市民研究室・天文研究室
市民の研究活動や,小・中学生などが調べ学習や課題解決学習を進めるための部屋です。専門的な図書や雑誌,他の博物館の展示図録・研究報告書などを利用することができます。また,学芸員や学習指導員が日常的に学習の相談にのっています。
博物館では学校利用にも力を入れ,小・中学生向けの展示見学用ワークシートを作成し,授業で活用できる資料の貸し出しや学習資料展の開催等を行っています。
また,合併した旧津久井4町の展示施設など市域の関連施設と連携・協力したり,自然・歴史展示室などの改修計画を進めたりしています。
自然・歴史展示室
中学生職業体験
展示見学用ワークシート
相模川自然の村
相模川自然の村は,市の中央部、相模川流域の大島に1996(平成8)年4月にオープンしました。
相模川自然の村は,市民の余暇利用施設「相模川自然の村(清流の里)」と小・中学校等における体験学習及び集団宿泊施設「相模川自然の村野外体験教室(相模川ビレッジ若あゆ)」の2つの施設を中心に,相模川自然の村公園,上大島キャンプ場などがあります。相模川自然の村の中には,農園やつり場,神奈川県水産技術センター内水面(ないすいめん)試験場もあり,市民の憩いの場として多くの市民に利用されています。
お花見やキャンプでにぎわう相模川自然の村の一角にある相模川自然の村公園は,相模川の豊かな自然を体いっぱい感じることができるところです。また,江戸時代中期に建立された青柳寺庫裡を移築した古民家園や広々とした芝生広場もあり,青空の下,のびのびと一日楽しむことができます。
教育施設として設置されている相模川ビレッジ若あゆでは,市立小・中学校や青少年団体の子どもたちが,地域や周辺の自然と触れ合いながら体験活動に主体的に取り組んでいる姿が見られます。
【相模川自然の村野外体験教室(相模川ビレッジ若あゆ)での体験活動】
相模川ビレッジ若あゆ
農業体験
陶芸
ウォールクライミング
また,2010(平成22) 年4月,2つ目の野外体験施設として市の北西部の澤井にふるさと自然体験教室(ふじの体験の森やませみ)がオープンしました。
ふじの体験の森やませみは,県立陣馬相模湖自然公園の豊かで広大な自然を生かし,相模原の子どもたちが自然から学び,自然にはたらきかけるよりダイナミックな豊かな体験活動を繰り広げる施設として設置されました。
【ふるさと自然体験教室(ふじの体験の森やませみ)での体験活動】
ふじの体験の森やませみ
草木染(藍)
森林間伐
3 市民の継承と発展
文化財とは
相模原市の文化財一覧
相模原市の新しい文化
その他,市民会館や文化会館,杜(もり)のホールはしもとなどでは,国内外の音楽家や劇団などが招かれて,本格的な公演が行われたり,市民の各種団体による発表会が活発に開かれています。
小・中学生の活動としては,淵野辺公園や女子美アートミュージアムを使って,造形「さがみ風っ子展」が開かれています。多くの作品が展示され,たくさんの人たちが鑑賞します。
相模原市民合同演奏会
調べてみよう「相模原市の文化・伝統行事」
レポートへのまとめ方(例)
Q1 調べてみたい文化・伝統行事(テーマ)
Q2 なぜその文化・伝統行事を調べようと思ったのか?
Q3 自分の予想(いつごろか,何の目的で行われていると思うかなど)
Q4 内容
(1)始まりはいつか?
(2)どこで行われているのか?
(3)何の目的で行われているのか?
(4)何をするのか?
(5)その他
Q5 調べてわかったことや自分の意見・考え・感想など
Q6 調べるのに使用した資料や訪ねたところ,協力者など
第12章 市民生活の向上
ふれあい親子サロン
急激な人口増加,都市化にともない相模原も大きく変わりました。自然環境が大きく変化しただけでなく,下水道・ごみ・公害などの生活環境の問題や福祉の問題,消費生活の問題など,市民生活の上でも様々な課題が生じてきました。
この章では,これらの問題の解決の努力の様子を見ていき,市民生活の向上について考えましょう。
1 生活環境と公害
急激な都市化と生活礫境の整備
相模原市の人口は,市制施行後の50年間で約7.5倍の約62万人となり,全国有数の人口急増都市に数えられるようになりました。そのため,下水道,道路,公園などの都市施設,中学校,図書館などの教育施設の整備が重要な課題となり,相模原市はこれらの施設の整備におわれました。また,排水,ごみなどの問題,公害などの都市独特の悩みもかかえることになりました。さらに,2007(平成19)年3月の合併により,人口は70万人をこえ(県下3位),面積は328.84k㎡(県下2位)の全国でも有数の都市となり,それにともなう課題も多様化してきました。
市民はどのような都市(まち)づくりをのぞんでいるのでしょうか?
優先してほしい施策
市に優先してほしい施策-上位10項目の変遷(へんせん)-
快適な暮らしを支える公共下水道
私たちの毎日の生活は,水を使うことにより成り立っています。消費され汚れた水を再びきれいな水に処理し,自然の循環サイクルに組み入れ,地球に優しい環境づくりを担っているのが公共下水道です。
神奈川県公共下水道普及状況(神奈川県の下水道事業より抜粋)
ところで,私たちの家庭から出る汚水や降った雨はどこへ行くのでしょうか?汚水は市内の下水管(汚水)から相模川流域下水道の左岸幹線や座間・海老名幹線に流れ,相模川の河口にある終末処理場で,微生物による処理などの各工程を経て,きれいな水になって相模湾へ放流されます。また,雨水は道路の側溝などから下水管(雨水)を通して市内を流れる河川につながり流されています。
公共下水道を整備するためには多額の費用や長い年月を必要とします。そのため市では,1967(昭和42)年に公共下水道の整備を始め,1972(昭和47)年には相模川の水質保全や水資源確保の目的から,県と相模川流域の関係市町村で進めている相模川流域下水道事業に参画しました。
そして,市の重点施策として公共下水道整備を進めた結果,汚水処理については2016(平成27)年3月までに市の総面積32,882ha のうち7,563ha が整備されました。なお,人口に対する普及率は96.5%となり,全国的にも高い水準となっています。
下水道処理のイメージ図
市のシンボルマークのマンホール蓋
また,都市化が進んだ現在,かつての田畑などは住宅地に変わり,道路は舗装され,降った雨が一気に流れ出して,市街地で浸水被害を招くようになってきました。そのため市では,河川改修や下水管(雨水),雨水調整池などの整備を行い,災害を防止するための事業を推進しています。
緑区水源地域でも,下水道の整備や浄化槽の設置など,生活排水の処理に重点的に取り組んでいます。このことは県民の水源地となっている湖の環境保全にもつながっています。
私たちは快適な生活環境やきれいな河川,海を守るためにも,各家庭から出る排水の中に油やごみを流さないなど一人ひとりがルールを守って正しく使用し,下水の処理に負担がかからないよう気を付けなければなりません。
相模川流域下水道計画概要図 「神奈川県の下水道事業」より
相模原市の汚水を処理している相模川流域下水道「左岸処理場」(茅ヶ崎市)
こみの減量化・資源化
私たちの家庭や市内の会社などからは毎日大量のごみが発生しています。このうち会社などから出るごみは会社の責任で正しく処理するように法律で定められています。市で処理しているごみは,おもに家庭から出るごみです。人口が年々増加し,様々な産業が集まっている相模原市では,快適な生活環境を保つために,ごみの適正な処理は欠くことのできない重要な課題となっています。
このため,相模原市では1日525トンのごみ処理能力をもつ南清掃工場や,1日450トンのごみ処理能力と粗大ごみの処理施設を併設した北清掃工場を設け,ごみを処理しています。
相模原市南清掃工場
しかし、ごみを処理するためにはお金がかかります。2015(平成27)年度のごみ処理経費は約70億円で,これを市民1人あたりにすると,年間で約9,800円を負担していることになります。ごみが増加するとごみの処理経費も増加するので,私たちはごみを減らすように努めることが大切になります。
このため,国においては2000(平成12)年に「循環型社会形成推進基本法」を制定し,その後,リサイクル関係の法律の整備が進められてきました。
年度別ごみ処理量と市民1人1日あたりの排出量
相模原市では,2010(平成22)年から,相模原71万市民のごみ減量作戦として「相模原ごみDE71(でない)大作戦」を展開し,市民,事業者,市が一体となって廃棄物の減量化,資源化などの取り組みを進め,2013(平成25)年3月には,資源循環型都市さがみはらを実現するため「相模原市一般廃棄物処理基本計画」の改定を行いました。
「資源分別回収」は,その具体的な取り組みの一つで,びん,かん,古紙,容器包装プラなどを一般のごみと分けて集めリサイクルすることにより,ごみの量を減らし,限りある資源の有効利用を進めるものです。
調べてみよう「資源循環型社会」
私たちの豊かな生活を支えてきた大量生産・大量消費・大量廃棄型の社会経済システムは,地球規模での環境問題を引き起こすなど,そのあり方が問われています。このため,廃棄物の発生を抑え,資源の循環的な利用を進めることで,資源の無駄遣いと環境への影響をできるだけ少なくする「資源循環型社会」に変えていくことが求められています。
このことについて,身近な地域の取り組みを調べてみましょう。
Q1 次の法律の内容を調べてみましょう。
(1)循環型社会形成推進基本法
(2)家電リサイクル法
(3)小型家電リサイクル法
(4)他にはどんな関連する法律があるかな?
Q2 相模原市が行っている「資源分別回収」について内容や方法をまとめてみましょう。
(1)資源として分類できるものは何だろう?
(2)資源として出すときの注意点は何だろう?
(3)資源のゆくえはどうなっているのだろう?
Q3 あなたの住んでいる地域のごみや資源の収集日や出し方の注意点をまとめてみましょう。
(1)「一般ごみ」「資源」「容器包装プラ」の日は?
(2)粗大ごみはどうするのかな?
(3)パソコンはどうするのかな?
Q4 資源分別回収以外に,資源循環型社会をつくる上で,わたしたちにはどのようなことができるでしょうか。調べたことをもとに,あなたの考えをまとめてみましょう。
参考資料
・市発行の「ごみと資源の日程・出し方」
・市ホームページ「リサイクルとごみ」
・相模原市一般廃棄物処理基本計画 など
・相模原市ごみ分別アプリ「シゲンジャーSearch(サーチ)」
相模原市一般廃棄物処理基本計画「循環型社会形成さがみはらプラン21」より
「数値目標 市民1人1日あたりの家庭こみ排出量」
市民1人1日あたりの家庭ごみ排出量を平成18年度の631gから,平成30年度までに150g以上削減して480g以下にすることを目指します。
橋本台リサイクルスクエア
私たちを取り巻く環境問題
環境問題は,地球温暖化やオゾン層の破壊,酸性雨,海洋汚染など,今や地球規模の問題です。私たちの身近な地域にはどのような環境問題があるのでしょうか。
相模原市では,1996(平成8)年に「相模原市環境基本条例」を定めるとともに,2001(平成13 )年3月に「相模原市環境基本計画」を策定し,市民,事業者,行政が連携しながら,よりよい環境づくりに取り組んできました。その後,水源地域である津久井4町との合併や政令指定都市への移行を踏まえ,平成22年に「相模原市環境基本計画」を全面改定し「やすらぎと潤いがあふれる環境共生都市」 を基本目標とし,6つの環境目標を定め,具体的な取り組みを推進しています。取り組みの結果は,年度ごとに「さがみはらの環境」として刊行されており,私たちの身近な環境問題を知る上で大切な手がかりになっています。
冊子 さがみはらの環境
相模原地域には相模川や段丘崖(だんきゅうがい)に多くの自然が残され,また,津久井地域には県民の水源地域となる広大な森林や清流,相模湖,津久井湖,宮ヶ瀬湖など豊かな自然環境が形成されています。しかし,近年の都市化の進展や森林の荒廃のため,環境悪化が顕在化(けんざいか)してきており,これらの自然環境の保全には,市民・事業者・行政の一体となった取り組みが欠かせません。相模原市では「不法投棄をしない・させない・許さない」まちづくりを推進するため,不法投棄多発地域への監視カメラの設置やパトロールの実施,市民と行政との連携による「不法投棄防止パートナーシップ協定」の締結や不法投棄撲滅キャンペーンなどを行っています。
不法投棄撲滅キャンペーン
2006(平成18)年4月には,環境学習,環境活動を進めるための拠点として「環境情報センター」が開設され,多様な環境学習プログラムの提供や環境講座の実施,環境に関する相談・アドバイスも行なわれ,環境の保全及び創造を具体的に実践することができる人材の育成に努めています。
環境情報センター
このセンターには,簡易実験や工作等の環境学習,環境講座等に利用できる活動室や学習室,環境情報を調べるための図書や資料などを配架(はいか)した環境情報コーナー,環境活動の成果を展示・発表することができるエコギャラリーのほか,地球にやさしい太陽光発電・グリーンカーテンなどがあります。
2014(平成26)年3月1日, 一般廃棄物最終処分場のうち, 埋め立てが完了した第1期整備地に, 相模原市と民間事業者が協働で大規模太陽光発電所(メガソーラー)を設置しました。この発電所の名称は「さがみはら太陽光発電所」としていますが, 民間事業者と協働の事業であることを分かりやすく周知することなどを目的として, 愛称を「ノジマメガソーラーパーク」と命名しています。
ノジマメガソーラーパーク
ノジマメガソーラーパークは, 7,688枚の太陽光パネルが設置されており, 年間の発電量は約178万kWhで一般家庭約500世帯分の年間使用電力に相当します。太陽光発電などの再生可能エネルギーは, 火力発電などの化石燃料を使った発電と比べると, 二酸化炭素(CO₂)を排出しないクリーンなエネルギーであるため,地球温暖化対策の推進に向け, より一層普及されることが期待されています。
このメガソーラーでは, 市民・事業者の見学会や学校の社会科見学などが行われます。見学スペースに設置された「発電掲示板」には「現在の発電量」や「CO₂削減量」などを表示しており, 見学者はその場で発電状況が確認できるため, 時間帯や天候に左右される太陽光発電の特性を確認することができます。
このようにメガソーラーを, エネルギー問題や地球温暖化問題の解決の一助とするとともに, 再生可能エネルギーの普及啓発や環境教育に活用しています。
2 福祉の充実
社会福祉の重要性
「市政に関する世論調査」によれば,"社会福祉が進み,健康で安全に暮らせるまち"が市民の考える市の将来像として,最も多くなっています。市民の関心は,施設面ばかりでなく,しあわせと生きがいのある心ふれあうまちづくりにあるといえましょう。
社会福祉とは,すべての人々が社会的に自立し,家族や地域社会と積極的なかかわりを持ちながら,充実した生活を送れるようにするための制度やしくみです。
社会福祉は,限られた一部の人のものではありません。私たちも,これからの人生のなかで思いがけない病気や事故にあったり,家族が障害を受けたりすることもあります。また,だれもが年老いることを避けることはできません。つまり,社会福祉を充実させることは,社会全体のためでもあり,私たち自身のためでもあるのです
高齢者福祉
相模原市における65歳以上の人口は,2016(平成28)年10月には173,240人で総人口の24.2%となりました。今後2020(平成32)年には190,860人,総人口の26.1%をしめると推定されています。市では,いきいきと充実した生活をおくることができる高齢社会の形成をめざし,計画を立て,様々な施策をすすめています。
高齢者が住み慣れた地域で安心して生活をおくれるよう,医療・介護・介護予防・住まい・生活支援のサービスが切れ目なく提供されるような高齢者を支える仕組みづくり(地域包括ケアシステム)をすすめることが大切です。その中心となるのが,市内29地区に設置している地域包括支援センター(相模原市では高齢者支援センターという愛称名で呼んでいます)です。このセンターでは保健師,社会福祉士,主任ケアマネジャーなどの専門職が高齢者の健康・福祉・介護など様々な相談に応じています。
中央高齢者支援センター
また,市では60歳以上の市民を対象とした高齢者大学として,毎年「あじさい大学」を開講しています。高齢者が,互いに交流を深めながら新しい知識と教養を身に付け,健康で生きがいのある生活を送れるようあじさい会館やソレイユさがみなどを会場に,1年間にわたり仲間とともに学んでいます。現在,あじさい大学は,芸術,健康,文学,教養,園芸の5学部からなり,年間1,000人を超える高齢者が熱心に取り組んでいます。
あじさい大学
障害者福祉
身体が不自由だったり,知的な発達に遅れがあったり,心の病気にかかっている人たちが,住み慣れた地域で安心していきいきと暮らすことができる社会をつくることが必要です。
市では「すべての市民がともに生きる」という理念のもと,障害の種別,程度にかかわらず,自立した日常生活を営むことができるよう,生活支援や就労支援,相談支援のほか,障害のある子どもを支援する療育体制の充実をはかっています。
たとえば,身体が不自由な方に配慮したバリアフリーの建築物・道路などの整備や,車いすなどの補そう具費の支給,住宅の改修への助成,車いすのまま乗れるリフト付き福祉車両の運行,就職に向けた支援,ノンステップバスの導入の促進などを行っています。
また,陽光園では,支援が必要な子どもたちのために,福祉と医療が連携した総合的な療育相談を実施しています。
けやき体育館では,障害のある人の余暇活動の拠点として,体操・バドミントンなどのスポーツ講座や音楽・手芸などの文化講座が開催されています。
そのほかにも,障害のある人の自立や生活を支援する障害者支援センター松が丘園,上九沢身体障害者デイサービスセンター,障害者地域活動支援センターなどの施設があります。
リフト付き車両
こども育成
次のグラフを見ると,相模原市の合計特殊出生率は,全国や神奈川県にくらべても低い水準にあります。
(注)「合計特殊出生率」は,女性が15歳から49歳の間に生む平均子ども数に相当する数値
合計特殊出生率の推移(全国、神奈川県、相模原市)
急速にすすむ少子高齢化社会は,わが国の社会経済全体に深刻な影響を与えるものです。次代の社会を担う子どもたちが健やかに生まれ,成長する環境をつくるために,様々な支援策が必要になっています。
市内には子ども育成の拠点として,こどもセンターが24か所,児童館が23か所あります。こどもセンターは,子どもたちが集える遊び場としての児童館機能と,放課後の児童クラブの機能を持っており,子育て家庭が安心できる環境づくりに取り組んでいます。
また「ふれあい親子サロン」「子育て広場」など,子育て支援の充実にも努めています。
大野台こどもセンター
青少年健全育成
青少年の活動の場としては,地域の子ども会やジュニアリーダー,ボーイスカウト・ガールスカウト,鼓笛バンド,少年少女合唱団等の組織があり,様々な場面で活躍しています。
また,青少年学習センターでは,青少年向けの催しや講座が開かれています。
地域では,青少年の健全育成のための協議会や青少年指導員の人達が,様々な活動を通じて,子どもたちを見守り,健やかに育つための環境づくりに取り組んでいます。
「ボランティア活動」
平成7年の阪神・淡路大震災,平成16年の新潟県中越地震,平成23年3月に発生した東日本大震災,そして平成28年に発生した熊本地震など災害の場面で多くのボランティアの活躍が報道され,ボランティア活動という言葉を日常的に耳にすることが増えています。
もちろん,ボランティア活動は災害時だけのものではなく,私たちが暮らす相模原市でも日常的に,そして活発に行われています。
○ ボランティア活動とは?
ボランティア活動は①自発性(自分の意思と責任で)②社会性(問題を抱える人達や社会全体のため)③非営利性(金銭的な利益を求めない)④先駆性(よりよい社会をつくる)が原則と言われています。つまり「困っている方々を支えることを通じて,より良い社会を築くために,利益を求めずに自分の意思と責任で行動すること」がボランティア活動なのです。
○ 相模原のボランティア活動
市内には,ボランティア活動の拠点として,3か所のボランティアセンター(緑区合同庁舎・あじさい会館・南保健福祉センター)が設置されています。その運営は,社会福祉法人相模原市社会福祉協議会が行っており,地区社会福祉協議会,NPO法人相模原ボランティア協会のほか,市内ボランティアグループや個人のボランティアが協力しています。
ボランティアセンターではボランティア活動者を登録する制度「いるかバンク」を実施しており,平成27年度末701名の方が登録しています。また,ボランティアセンターは高齢者や障害のある方等からの相談に応じ,いるかバンク登録者や地区で活動するボランティアグループなどに活動の依頼をしています。
活動は障害のある子どもの登下校や車いすを利用する人への病院等への付き添いなど生活に欠かせないものからお年寄りの囲碁や将棋の相手のように一緒に楽しむものまで幅広いものがあります。さらに,これからボランティア活動を始めたい方のためには,様々な講習会が行われています。しかし,残念ながらすべての依頼に応えられてはいません。まだまだボランティアの数が足りないのが現状で,多くの方の協力が必要なのです。
○ 中学生にできるボランティア活動は?
まずは,ボランティアや福祉について「知ること」「興味をもつこと」が活動の第一歩です。
休日に,住んでいる地域で行われている福祉行事や清掃等に参加することや,障害者や高齢者等の施設を訪問することも身近にできる活動です。
また,夏休み期間中に行われている中学生を対象にしたボランティアチャレンジスクールや,身近な地域でボランティア体験講座等に参加することもよいでしょう。
活動先を見つける相談はボランティアセンターですることができます。
その他にも使用済切手・プリペイドカード・アルミ缶などを集めるボランティア活動もあります。
3 市民の消費生活と労働
消費生活の向上をめざして
わが国の経済・社会の急激な変化の中で,消費者問題も複雑化・多様化してきています。相模原市では,安心できる消費生活を送ることができるよう,相模原駅ビルの「シティ・プラザさがみはら」,橋本駅北口商業施設内にある「シティ・プラザはしもと」,相模大野にある「市南区合同庁舎」の3箇所に消費生活センターを設け,市民からの商品やサービスに関する苦情相談への対応や情報の提供,トラブルにあわないように啓発などを行っています。
また,国民生活の安定及び向上に寄与することを目的に,消費生活に関する情報提供や調査・研究を行う機関として,独立行政法人国民生活センターがあります。ここでは,商品の品質や取り引きなどに関する苦情を処理したり,商品テストを行うとともに,その情報をテレビ・ラジオ・新聞・その他の出版物を通じて消費者に提供するなどの業務を行っています。また,消費生活相談員などの研修も行っています。このうち,研修や商品テストは相模原市中央区弥栄にある国民生活センター相模原事務所で行われています。
消費者自身も,消費生活における権利と利益を守ることを目的に,自主的に組織した各種の団体をつくっています。例えば,組合員から組合費を集め,店舗(てんぽ)を構えて,各種の商品を組合員に販売したり,米・肉・卵・牛乳などの商品を中心に,産地直送などで共同購入し,組合員に分配している生活協同組合などがあります。また「安全・安心」な商品を求めるだけでなく,福祉活動や環境保護活動などをしている団体もあります。近年は商品やサービスの多様化がいっそう進み,消費者の選択の幅が拡大する反面,消費者が自ら考えて,判断し,主体的に責任をもって行動することが求められています。
私たちも賢くそして自立する消費者になるために,今後もお互いに学習していきましょう。
北消費生活センター
勤労者の生活向上と雇用促進をめざして
社会・経済環境が大きく変わるなかで,勤労者一人ひとりがゆとりある暮らしと安定した生活を送ることができるように,雇用の確保や職場環境の向上をめざすことがますます大切になってきています。
国の機関のハローワーク相模原(相模原公共職業安定所)では,求職者への職業紹介や失業したときの給付事業などを実施しています。
相模原市では,ハローワークの窓口や,若者・女性などの就職に向けた個別相談や職業紹介を行う就職支援センター,働くことに悩みをもつ若者に対して個別相談や市内企業での職場体験を行う若者サポートステーションなどが一体となった総合就職支援センターを運営し,きめ細かな就労支援を行うことで雇用の促進を図っています。
また,勤労者の生活向上をめざして,あじさいメイツ(公益財団法人相模原市勤労者福祉サービスセンター)では,勤労者を対象とした福利厚生事業に取り組んだり,サン・エールさがみはら(相模原市立勤労者総合福祉センター)を運営し,勤労者の文化,研修,スポーツ等の活動を促進しています。
有効求人倍率の推移(求職者1人あたり何件の求人があるかを示す数値,新規学卒を除き,パートタイムを含む)厚生労働省,神奈川労働局,ハローワーク相模原より
シルバ一人材センター
公益社団法人相模原市シルバー人材センターは,市内に住む原則60歳以上の高齢者で,健康で働く意欲のある人が会員として登録されている組織です。高齢者の豊かな経験と能力を生かし,働くことによって自らの健康と生きがいの充実を図り,地域社会づくりに貢献しようとする高齢者に働く場を提供しています。センターでは,高齢者にふさわしい仕事を請け負い,会員の希望,経験,体力などを考慮して提供します。
センターが請け負っている仕事は,清掃,除草,駐車場管理,植木の手入れ,襖・障子張り,大工仕事,網戸張り,袋詰め,家事支援,賞状筆耕,パソコン指導,家庭教師など多方面にわたっています。
刃物研き
襖・障子張り
年度別登録会員数の推移(シルバー人材センターより提供)
第13章 うるおいのあるまちづくり
健康で文化的な生活や快適で住みよいまちを築くために自然はとても重要なものです。
戦後の相模原地域は東京や横浜といった大都市に隣接しているために急激に都市化が進み,自然環境にも多くの課題を生じさせました。
ここでは,私たちの市民生活にかかわりの深い公園や緑道,さらに相模川といった身近な自然についての学習をし,市民と自然とのかかわりについて,ともに考えていきましょう。
1 私たちの自然環境
相模原の自然環境
市の西部にあたる津久井地域は神奈川県内の重要な水源域でもある豊かな自然に恵まれていますが,市の東部にあたる相模原地域では,昭和30年代に入ってからの急速な都市化による人口の急増や工業化にともなって緑地が減少したり,川の水質が汚濁したこともありました。市内の美しい自然を守るとともに,市民と自然の豊かなふれあいの場を確保することが,現在の相模原市の主要な課題の一つとなっています。
相模原の公園
公園は子どもたちの健全育成や市民の憩(いこ)いの場として大切なばかりでなく,災害時には避難場所として重要な役割を果たしています。
現在,市内の代表的な公園として,県立相模原公園や県立津久井湖城山公園,県立相模湖公園,そして,ふれあい動物広場やクレマチスの花などで親しまれ,2つの競技場を有する相模原麻溝公園,アジサイで有名な相模原北公園,スポーツ施設を中心とした横山公園や淵野辺公園,津久井又野公園,相模湖林間公園等があります。また,国指定の遺跡がある史跡田名向原遺跡公園や史跡勝坂遺跡公園,水やみどりをいかした相模川自然の村公園や道保川公園,噴水,滝,流れ,池などがそろった街なかにある相模大野中央公園,そして身近な遊び場である各地域の公園等があります。これらの公園の面積の合計は,約332.86ha となり,市民1人あたりの面積にすると約4.64㎡になります。(平成28年4月1日現在)
相模原市の主な公園
水とみどりの基金
水とみどりは,わたしたちの生活環境に欠かせない重要な要素です。
市では1984(昭和59)年に「相模原市みどりのまちづくり基金条例」と「相模原市緑地保全基金条例」を,また2006(平成18)年には「相模原市中道志川トラスト基金条例」を施行し,それぞれ目的に応じた3つの基金を設けました。
「みどりのまちづくり基金」はみどりを守り,育て,知り,親しむ活動にあてられます。「緑地保全基金」は失われつつある緑地を将来にわたって保全していくための購入資金にあてられます。「中道志川トラスト基金」は中道志川の鮎と清流の復活をめざす活動にあてられます。これらの基金は,市費のほかに,市民や企業,団体などからの寄附金によります。
2 私たちと相模川
相模川のながれ
相模川は山梨県の山中湖付近を水源とし,神奈川県の中央を南北に流れ, 相模湾に注いでいる長さ約113kmの河川です。上流域の山梨県上野原市から相模原市に入り,相模湖・津久井湖を経て,愛川町・厚木市との境を流れています。
私たちは相模川と古くからかかわりをもってきました。それは水との闘(たたか)いの歴史でもあり,豊かな自然の恵みを受け続けた歴史でもありました。
そして今,私たち市民にとって相模川は憩(いこ)いの場としてたいへん重要なところとなっています。市ではこの恵まれた自然ともっと親しめるように様々な事業を進めています。
また,津久井地域にはこの相模川に流れ込む道志川があります。山梨県道志村の山伏峠(やまぶしとうげ) を水源とし,津久井地区と藤野地区,相模湖地区の境を流れて緑区三ヶ木で合流します。
開発の進むなかで
近代の幕開けとなった明治以降,相模川の開発は横浜や川崎といった都市への飲料水の供給をきっかけに急ピッチで進められました。大正から昭和にかけては都市建設のために砂利(じゃり)の採取(さいしゅ)も行われるようになりましたが,1964(昭和39)年,相模川での砂利採取は河床(かしょう)低下等を防ぐために全面禁止となりました。
現在,相模川の水は,相模ダム1947(昭和22)年,城山ダム1965(昭和40)年の完成によって飲料水,発電用水,農業用水,工業用水として一層有効に使われています。
しかしその反面,水質の低下や水量の減少も指摘されるようになってきました。
また,相模原地域では昭和30年代後半からの急激な都市化から自然は著しく減少し,市民が身近に自然とふれあう機会をもつことが困難となってきました。このようなことから相模川の自然は一層かけがえのないものとなり,これを守ることは市民全員の重要課題とされ,河川環境の保全に対する様々な取り組みが行われるようになりました。
川を守り、親しむ
相模川の貴重な自然を守るため「みんなで相模川を守ろう」「みんなで相模川に親しもう」をテーマに市や市民団体が様々な取り組みをしています。
川を守ろう
1983(昭和58)年から始まった「相模川クリーン作戦」は,市民団体である「相模川を愛する会」の主催により毎年継続されており,今では年2回,6月と10月に行われています。毎回1,000人以上の市民が参加して河原の清掃活動に取り組んでおり,河川環境保全におけるボランティア活動の意識が高まっています。
また,下水道事業等の推進による水質の浄化対策や,川の景観を構成する緑の保全等の制度を通じ,環境保全にも取り組んでいます
市民による魚類の放流
川に親しもう
相模川に親しむイベントとして,川の自然観察会や釣り教室などが行われています。また,相模川に親しむ場の充実を図るため,相模川自然の村,三段の滝展望広場の整備や,これらの関連施設を結ぶ相模川散策路の整備が進められてきました。
相模川での大きな行事として,泳げ鯉のぼり相模川納涼花火大会,相模の大凧は,季節の風物詩として定着しています。
《相模川沿いの主な施設》
相模川沿いの主な施設 関連資料リンク
相模川の交通
いかだ流し
江戸時代,建築に使用される用材はいかだを組んで流しました。田名にはいかだ師がいて,上流から来たいかだを受け継いで平塚の須賀まで運び,運賃をかせいでいました。
いかだ流し
相模川の帆掛(ほか)け舟
明治時代から昭和初期にかけて相模川を帆掛け舟がのぼりくだりしていました。
相模川の川漁(かわりょう)
相模川は平安時代に何という名で呼ばれていたでしょうか?平安時代の初期の文献を見ると,そこには相模川のことを「鮎(あゆ)河」と記してあります。おそらく鮎がたくさんいる川として名高かったことでしょう。
江戸時代の人々と鮎
江戸時代の1736(享保(きょうほう)21)年の橋本村の古文書によると「将軍の食卓に供する鮎を運搬するため,人夫を出した」とあります。
相模川の鮎
明治時代の鮎漁(あゆりょう)
明治時代になると地元のナカシと呼ばれる仲買人が,釣った鮎を買い集めたり,アユカツギとよばれる人々が,東京の日本橋まで鮎を運んだこともあったそうです
江戸時代から昭和初期にかけて,相模川でも鵜飼(うか)いが行われていました。また,様々な川漁(かわりょう)の用具も用いられました。右の写真はウナギをとるためのしかけです。
ウナギドウ
相模川を題材にして新聞をつくろう
新聞のつくり方
1 タテ線,ヨコ線を入れる(マスのまん中に)
※ 外わくと見出しわくは最後まで残るので濃く,それ以外は後で消すのでうすく書く。
2 タタミ(左上)やカコミ(右下)の「わく」をとる
3 見出しやカットの場所を決める
※ 見出しは記事の内容を短い言葉でわかりやすく,読む人が興味・関心をもてる表現にする。
4 各記事の字数を数える
5 記事原稿の下書きをする(字数を確認しながら)
※ 5W1Hをはっきりさせる。書き終えたら他の人に見てもらい,誤字・脱字や表現の仕方などについてアドバイスをもらう。
6 記事原稿の校正・修正を行う
7 見出しのレタリングやカット描きを行う
8 記事原稿を新聞用紙に清書する
※ 黒の細いペンで濃い・うすいの差が出ないように丁寧に読みやすく書く。
9 レタリングはラインマーカー,色鉛筆,クレヨンなどで工夫する
10 見出しやカットを貼り付ける
11 コピーをとって黒板に貼り,3m離れて全体の紙面構成のバランスを見る
12 細かいところの手直しをする
13 印刷をして完成
☆パソコンやデジタルカメラなどを使用してつくったり,壁新聞をつくることにもチャレンジしてみてください。
☆一人ひとりが調べた内容を持ち寄り,グループで協力・分担して1枚の新聞をつくるのもいいでしょう。
紙面構成の例
第14章 未来の相模原市
私たちの相模原市は,都市的な機能と,豊かな森林・水源地などの自然が融合した新しいまちとして生まれ変わりました。
このすばらしい環境のもとで私たちは私たち自身の手によって,自然と調和した人間尊重の地域社会を築いていく使命があります。
これからの相模原の姿を学習し,私たち一人ひとりの役割とは何かを考えましょう。
1 「選ばれる都市」をめざして
政令指定都市移行と選ばれる都市づくり
地方分権の進展や少子高齢社会の急速な進行など,市町村を取り巻く環境の変化に対応するには,都市としての活力を維持・向上させることが重要です。
そのため,相模原市は,都市の魅力や機能を高めることにより,多くの人や企業から住んでみたい,訪れてみたい,企業活動の拠点としたいと思われる「選ばれる都市づくり」を進めていきたいと考えています。
この「選ばれる都市づくり」を進める上で,広域的な都市整備や高度で専門的な行政サービスを,より主体的に展開できる政令指定都市の制度は非常に有効であり,相模原市は2010(平成22)年4月に県内では3番目,戦後生まれの市では初めて政令指定都市に移行しました。
全国の政令指定都市位置と人口 相模原市調べ(平成28年9月1日現在)
政令指定都市は,県からの事務移譲や区制の施行など,大都市の特例が適用されるため,これらを活用することにより都市の総合力の向上を図っています。
( )内数字は全国の市や町村の数(平成28年10月10日現在)
規模別 都市の制度と移譲事務
市民との協働によるまちづくり
相模原市は昭和29年の市制施行から,人口増加,都市化などによる急激な変化を乗り越え,中核市への移行,津久井地域との合併を経て,豊かな自然と都市機能を併せもつ,70万人を超える大きな都市となりました。
政令指定都市としての新しい相模原市のまちづくりを進めるために,まちづくりの基本的理念や,おおむね20年後の都市像を示した「相模原市基本構想」を市民の声を聞きながら,2008(平成20)年6月に策定しました。
相模原市基本構想
1 基本理念
わたくしたちのまちは,丹沢の雄大な山なみ,相模川の清らかな流れ,相模野の広大な台地に抱かれ,先人の知恵とたゆまぬ努力により,豊かな水資源のもと,歴史と文化が培われ,発展してきました。
まちづくりの目的は,平和な社会のもと,すべての市民が生きがいと活気に満ちて,安全で安心して心豊かに暮らせるまちを創ることにあります。
しかし,わたくしたちを取り巻く社会は,地球温暖化などの環境問題,人口減少や超高齢社会の到来,産業構造や雇用形態の変化,米軍基地の存在,地域コミュニティの希薄化など,多くの課題を抱えています。
こうした課題を乗り越え,心豊かな人づくりと次代に誇れるまちづくりを進めることが今に生きるわたくしたちの責務です。
わたくしたちは,一人ひとりがまちづくりの主役となり,豊かな自然を守り育て,安全で快適な生活環境をはぐくむとともに,住み,働き,学び,集うすべての人とともに生き,個性と創造力を発揮し,人と自然と産業が共生する活力ある相模原市を創造します。
2 都市像
わたくしたちは,基本理念を基調に,次の都市像の実現に向けてまちづくりを進めます。
『人・自然・産業が共生する 活力あるさがみはら』
3 基本目標
わたくしたちは,都市像を実現するため,次の5つの基本目標を定めます。
(1)誰もが安全でいきいきと暮らせる安心・福祉都市
(2)学びあい 人と地域をはぐくむ教育・文化都市
(3)やすらぎと潤いがあふれる環境共生都市
(4)活力にあふれ多様な交流が生まれる広域交流拠点都市
(5)市民とともに創る自立分権都市
この基本構想では「人・自然・産業が共生する 活力あるさがみはら」を都市像に掲げ,さらに,この都市像を実現するため,5つの基本目標を定め,現在まちづくりを進めています。
この基本構想の実現に向け,2010(平成22)年3月に策定した「新・相模原市総合計画」に基づき,市民との協働によるまちづくりを進めています。また,総合計画と同時に策定した「都市計画マスタープラン」では土地利用,交通,都市基盤施設などの方針に基づき,よりよい都市づくりに取り組んでいます。
まちづくりの主役は私たち一人ひとりです。
丹沢の雄大な山なみ,相模川の清らかな流れ,相模野の広大な台地というまちづくりの舞台の上で,様々な課題に立ち向かいながら,都市像の実現に向けて,市民の皆さんとともに未来のさがみはらを創りあげていきましょう。
地域のまちづくり会議
総合計画とは
■目的:将来の相模原市をどのようなまちにしていくかを示す「まちづくりの指針」となるもので,市政全般の政策・施策・事業の方向性を定めるものです。このように方向性を定めることで,様々な分野にわたる事務事業を一つの方向性のもとに計画的に推進することが可能になります。
■構成:「基本構想」「基本計画」「実施計画」の3層で構成します。「基本計画」は,市議会平成20年6月定例会で議決された「基本構想」で定めた都市像を実現するための施策の方向性を定めたもので「実施計画」は「基本計画」を計画的に推進するための具体的な事業計画です。
都市計画マスタープランとは
主に,土地利用,都市施設の整備,市街地開発事業など,都市づくりの分野についての方針を示すもので「総合計画の基本構想」と「都市計画区域の整備,開発及び保全の方針」に基づき定めています。
■目的:おおむね20年後の都市の将来像を描き,行政と住民がこれを共有し,実現していくことです。
■構成:市全体の都市づくりの考え方を示す「全体構想」と,地域ごとの詳細な都市づくりの考え方を示す「地域別構想」で構成しています。
■将来都市構造
将来のめざすべき都市の姿を概念的に示すものです。
リニア中央新幹線
広域交通
2 国際平和への貢献
国際交流の推進
国際化が進む今日,諸外国との親善と相互理解を深めることは地方自治体においても重要な課題となっています。また,市民の間でも,多様な国際交流が広がりつつあり,外国人と接する機会も増えています。人々が互いに理解を深め,友好をはぐくむことは世界平和の実現にとって非常に重要なことです。
中国・無錫(むしゃく)市との友好
1957(昭和32)年に中国から農業技術の視察に訪れたのをきっかけに,相模原市と中国との交流が始まりました。1980(昭和55)年からは,市内の職業能力開発総合大学校に中国人留学生が入学,1983(昭和58)年には,相模原市から「少年海外スポーツ交流訪中団」が無錫市を訪問,卓球の試合を行うなど,互いに交流を深めてきました。
このように無錫市との交流が始まり,1985(昭和60)年10月にあじさい会館で友好都市締結の調印式を行いました。
友好都市「無錫市」「トロント市」「トレイル市」の位置
以降,毎年,両市の間で教育・文化・スポーツなど様々な分野で交流を続けています。近年,中国に進出する外国企業が増加する中,無錫市でも市内に工業団地を整備するなど,日本をはじめとした外国企業の誘致を積極的に進めています。このため,多くの外国企業が進出し,無錫市にとって日本は重要な貿易相手国になっています。
無錫市市街の様子
また,無錫市は観光地としても有名で,市南西部には「太湖」という中国国内で3番目に大きい淡水の湖があります。周辺には多くのレジャー施設があり,休日などは多くの観光客で賑わいます。
2015(平成27)年は,友好都市締結30周年を迎え,両市は「友好の誓い」に署名し,両市の更なる友好と世界平和に貢献していくことを誓い合いました。
カナダ・トロント市との友好
相模原市は,カナダのオンタリオ州スカボロー市(現トロント市)と1991(平成3)年5月31日に友好都市を提携して以来,お互いの生徒のホームステイ(2011 年まで実施)やスポーツ,高校生の職業体験(英語指導助手の体験),お互いの市内の企業との経済交流などの分野で現在までに2,000人をこえる市民が相互の訪問を通じて交流しています。
スカボロー市は1998(平成10)年1月1日に旧トロント市など近隣の5つの市と合併し,現在のトロント市となりました。トロント市は,五大湖の一つ,オンタリオ湖の北岸にある人口約280万人のカナダ最大の都市で,金融・商業や文化の中心地です。また,トロント市は世界中から移民を受け入れ,民族の縮図ともいうべき国際色豊かな都市です。そのため,トロント市には「ピープル・シティ」というニックネームがあり140語以上の言語が使用されていると言われています。
また,市内には高さ約553メートルのCNタワーや,大リーグなどの地元球団が本拠地とするロジャース・センター(多目的スタジアム),北米ホッケーリーグなどの地元チームが本拠地とするエア・カナダ・センター(屋内競技場)などがあり,郊外には有名なナイアガラの滝など雄大なカナダの自然がひろがっています。
トロント市
様々な国際交流や理解
本市の友好都市がある中国,カナダ以外の国々との交流も総合的な学習の時間等を通して進められています。
市立小・中学校では作品の交流からはじまり,外国の方を学校に招き講演会やスポーツ交流といったふれあいが行われ,国際交流を深めています。このほか,市内で学ぶ外国の友だちが日本語で学習するために国際教室が設置されたり,日本語巡回指導も行われたりしています。
また,外国人市民に情報を提供したり,支援などを行ったりする場所として1996(平成8年)に「さがみはら国際交流ラウンジ」(以下「ラウンジ」)を設置しました。
ラウンジでは「ラウンジニュース」の発行やFM多言語放送番組「タグタイム」の作成など外国人向けの情報提供,公共機関や病院などへの通訳派遣,外国人からの相談受付などの支援活動「さがみはら国際交流フェスティバル」をはじめとする各種交流事業,学校や公民館などで行う国際理解講座への講師派遣など,様々な事業を実施しています。
こうした事業はボランティアが中心となって行われており,ラウンジは相模原市の国際交流の拠点となっています。
これからの社会が一層,国際化の道を進むことが考えられるなかで,他の国の文化や習慣を正しく理解し,真の国際平和の実現をめざしていく姿勢が求められています。
中学生の国際交流活動
ラウンジでの日本語教室
無錫市との交流(無錫市少年宮)
さがみはら国際交流フェスティバル
国際交流活動に参加して ~少年海外スポーツ交流活動~
公益財団法人相模原市体育協会では友好都市の無錫市やスカボロー市(現トロント市)とスポーツを通じて交流活動を進めてきました。その少年海外スポーツ交流活動の記録です。昭和58年に始まり,33回目の交流となる平成28年度は女子ソフトボールの選手20名が8月11日~14日まで無錫市を訪ねました。無錫市では無錫市錫山区体育運動学校の生徒と交流大会を行ったほか,無錫市少年宮の生徒と文化交流を行いました。
訪中団記録集の中から,選手の感想の一部を紹介します。
「日本と中国では様々なことが違っていて,驚いたことや面白いと思ったことがたくさんありました」「ソフトボールはとても楽しいものです。それを思い出させてくれたのは中国の選手でした」「チームが1つになって試合に挑むことが出来ました」「言葉が通じ合わないとしても,心で通じ合うことができました」「私は初めて体験したことが多かったので,その体験や学んだことをこれからに生かしていきたいと思いました」「国や言葉,文化が違っていても仲良くなりたいという気持ちやソフトボール,スポーツで距離は縮まるのだなと感じました」「ソフトボールに限らず,スポーツは言葉の壁さえも飛び越えて,人の心と心をつないで笑顔にしてくれる素晴らしいものだと思いました」「みんな笑顔で接してくれてとても楽しかったです」「とても短くてあっという間だったが,内容はすごく濃く多くのことを学ぶことができました」「中国の伝統や文化に触れることが出来ました」「初めての場所で初めての相手と深い交流をもてました。互いの言葉がわからなくてもジェスチャーを使って伝えたり,簡単な英語を使って物の説明や数字の数え方などを伝えました」「国や言葉は違うけど年齢は同じぐらいなので話していて楽しかったです」「中国の選手は体格が良く,パワーがあって強かったです。また,中国の選手はスライディングをしないなど,プレースタイルにも違いを感じました」「楽しいことが多く4日間があっという間でした」「言葉が通じなくてもスポーツを通して交流・共感ができたことは,とても良い経験になったと思います」「中国の良さを知ることができました」「ソフトボールの技術,歴史等を学び知識を鍛えることができました」「中国のとても良いグラウンドでソフトボールができました」「私がこの4日間を通して感じたことは中国という国はとても素晴しい。という事です」等,選手にとって,とても良い経験になりました。
核兵器の廃絶と恒久平和の実現をめざして
1984(昭和59)年12月3日に開かれた市議会定例会において,市長提案による「相模原市核兵器廃絶平和都市宣言」が採択されました。恒久平和の実現はすべての人々の心からの願いであり,市民が安心して毎日の生活を送るためには,世界が平和でなければなりません。
相模原市核兵器廃絶平和都市宣言
しかしながら,今なお,世界の一部では,戦争や紛争等により不幸な毎日を過ごしている人々が多くいます。また,こうしたなかで,アメリカやロシアなどをはじめとする核保有国の存在は,一歩まちがえると人類を破滅においやる核戦争が起こる危機もあります。
わが国は,広島と長崎に原子爆弾が投下され,一瞬のうちに数十万人の尊い生命が奪われた世界でただ一つの被爆国です。こうした,いたましい経験をふまえて,非核三原則をもち,核兵器廃絶と世界平和に向けた,先導的な役割を果たしていく必要があります。
核兵器による不安を絶対に現実のものにしてはならず,世界の人々が協力して平和を希求し,維持(いじ)していかなければなりません。
こうした考えのもとに,相模原市は,心から平和を願う市民の皆さんとともに,核兵器の廃絶(はいぜつ)と世界の恒久平和の実現をめざして「核兵器廃絶平和都市」となることを宣言しました。私たちは,この宣言をより実りあるものにするために平和の問題をみんなで考え,平和思想の普及(ふきゅう)に努めることが大切です。
市民へのアピール
平和モニュメント(平和のねがい)
◎この副読本を作成するにあたって,参考にした資料の一部は相模原市行政 資料コーナー(本庁舎1階)で閲覧できます。
平成21年度4版<全面改訂>執筆・編集者,検討委員
[執筆・編集者]
・鈴木 良長(大野台中学校) ・奥村 仁(鵜野森中学校)
・白井 建一(田名中学校) ・小松 正宏(緑が丘中学校)
・渡邊 直展(中沢中学校) ・松本 祥勝(串川中学校)
・天野 克朗(藤野中学校) ・梶原 仁(中野中学校)
・山本 真(総合学習センター)
[検討委員]
・相模原市立中学校教育研究会 社会科部会 部会長 佐藤 公夫
・相模原市立中学校教育研究会 社会科部会 副部会長 八木 渉
・相模原市立中学校教育研究会 社会科部会 部長 小川 久治
・相模原市教育委員会 教育局 学校教育課 課長 佐藤 陽一
・相模原市教育委員会 教育局 学校教育課 指導主事 田中 秀典
参考文献 (順不同)
・相模原市統計書 ・相模原の地形地質報告書 ・さがみはら市湧水台帳
・戸籍住民課事務概要・相模原市産業の概要 ・工業統計調
・世界農業センサス神奈川県報告(2000年度)・相模原市の工業
・かながわ科学技術情報
・Information SAGAMIHARA KIKAIKINZOKUKOUGYODANCHI KYOUDOUKUMIAI
・商業統計 ・相模原市文化会館利用承認及び利用実績年報
・相模原市民会館利用承認及び利用実績年報 ・神奈川の遺跡(県教育委員会)
・養蚕信仰(町田市博物館) ・養蚕要略 ・養蚕秘録
・八王子千人同心史(八王子郷土資料館)・八王子千人同心の群像(八王子市郷土資料館)
・荻原(岡本)安右衛門長州征伐従軍日記 ・困民党と自由党(色川大吉)
・相模原市教育史 ・母たちの時代(長田かなこ)・相澤日記(相澤菊太郎)
・小田急ものがたり(小田急電鉄KK)・相模原市史 ・広報さがみはら
・相模原市財政の状況 ・清掃事業の概要・相模原の文化財(相模原市教育委員会)
・さがみはらの環境 ・相模原市の公共下水道
・相模原市環境基本計画 ・相模川計画第2次基本計画 改訂 「水と緑と太陽の相模川」
・新世紀さがみはらプラン 相模原21世紀総合計画・神奈川県忠魂碑等建立調査集
・津久井郡勢誌 ・津久井町ダム史 ・城山町史(城山町)
・相模湖町史(相模湖町) ・藤野町史(藤野町)
・町史の窓(城山町教育委員会) ・郷土さがみこ 古道編(相模湖教育委員会)
・津久井郡文化財 民俗編(津久井郡広域行政組合)
・津久井郡文化財 産業編(津久井郡広域行政組合)
・津久井町郷土誌(神奈川県民俗芸能誌より)
・津久井の歴史 今昔 2001(津久井町教育委員会)
・相模原市立博物館研究報告 第6集1997(相模原市立博物館)
・さがみはらどこでも博物館(相模原市立博物館)
・わたしたちの津久井(津久井郡 城山町 津久井町 相模湖町 藤野町 教育委員会)
※その他,参考文献は多数ありますが,割愛させていただきます。
※名称等は平成21年3月時点でのものです。
編集協力・資料提供
(順不同敬称略)
・石藏 政雄 ・清水 昭善 ・江成 温子 ・荒井 一雄 ・岸野伊之増
・関口 英吉 ・小山 浩二 ・笹野 ハル ・笹野 金次 ・座間 宣夫
・鈴木 勝 ・笹野 晏弘 ・相沢 鼎 ・八木雄一郎 ・山口 清
・遠山 正紀 ・神崎 彰利 ・芝田 英行
・東海旅客鉄道株式会社
・NEC相模原事業場 ・アイダエンジニアリング株式会社
・共立工業株式会社 ・東邦電子株式会社 ・カルピス株式会社
・日本マクドナルド株式会社 ・株式会社ヤマダ電機テックランド相模原店
・デニーズ相模原北店 ・サイゼリア 相模原清新店 ・コジマ×ビックカメラ相模原店
・BOOK-OFF 16号相模原富士見店 ・AOKI 津久井城山店 ・木曽路 相模原店
・ジョリーパスタ 相模原店 ・華屋与兵衛 相模原小山店 ・せんざん 相模原店
・らくとーぼ 相模原清新店 ・セブン-イレブン 相模原古淵3丁目店
・相模原機械金属工業団地協同組合
・JA相模原市営農センター ・相模原市緑化木生産組合
・相模原市民文化財団 ・相模原市社会福祉事業団
・相模原市社会福祉協議会 ・相模原市体育協会 ・シルバー人材センター
・湘北教育文化研究所 ・国土地理院
・財団法人 神奈川県公園協会 津久井湖城山公園 管理事務所
・尾崎行雄を全国に発信する会
・尾崎咢堂記念館
・相模原市観光協会
・神奈川県立上溝高等学校 ・神奈川県立相原高等学校
・相模原市公立小・中学校 ・神奈川県立津久井高等学校
・相模原市役所
企画政策課 広報課 情報システム課統計室 文化国際課 渉外課
総務課市史編さん室 広域行政推進課 財務課 保健福祉総務課 高齢者福祉課
障害福祉課 地域福祉課 戸籍住民課 消費生活課 産業振興課
商業サービス業課 働く人支援課 農林課 環境対策課 水みどり環境課 公園課
清掃総務課 都市交通計画課 土木計画課 議会事務局庶務課 学務課
学校教育課 相模川自然の村野外体験教室 生涯学習課 文化財保護課
スポーツ課 青少年課 図書館 博物館 産業会館 選挙管理委員会 消防局指令課
行政システム課 市民相談課 政令指定都市推進課 廃棄物政策課 教育総務課
福祉政策課 下水道整備課 介護予防推進課 観光振興課 こども施設課
城山町教育課 津久井町教育課 相模湖地域自治区事務所 藤野地域自治区事務所
津久井経済課
裏表紙の写真について
表紙の写真について
緑区鳥屋
緑区上大島
中学校社会科副読本
私たちの相模原 ―平成29年度版―
昭和56年4月1日 初版発行
平成5年4月1日 2版<全面改訂>発行
平成15年4月1日 3版<全面改訂>発行
平成21年4月1日 4版<全面改訂>発行
編集 相模原市立総合学習センター
〒252-0239 相模原市中央区中央3-12-10
電話 042-756-3443
発行 相模原市教育委員会
〒252-5277 相模原市中央区中央2-11-15
電話 042-754-1111
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