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見富山多聞院善勝寺

社寺・仏閣

 善勝寺開山は弘法大師と伝えられる。見富山と称し関東法談所三十六院の内に数えられ、津久井郡下において高野山派として最も格式高く、末刹十八か寺を有したという。本尊毘沙門天は、弘法大師作と伝えられる。
 中興有海(1500)を以って第1世開山と法系に登載されている。
 江戸後期第19世左学法印澄雄の入山以前が無住で、第20世照雄と共に寺院内外の改革に当ったという。
 善勝寺は現在地の段の上にあったというが、文化5年(1805)大雨打ち続き、裏山崩壊し、堂宇は大破し当時庭園であった北側の1部、現在地に移築されたとのいい伝えであるが、たしかに大伽藍に対して庭園のせまく感じられるのはその為であろう。善勝寺の修繕について、天保年間(1830~1843)に改修されたといわれているが記録はない。
 また、天保年間(1830~1843)に溝口清衛門という人が山門前の畑地と共に寄進した。庭園中央にあるこの山門は界わいまれに見る豪華な建造で4つ足門である。この山門について、畑地の小作料を以って山門の永代修理料とすべき寄進状が当時古文書の中に保存されているが、畑地は戦後農地開放により今は寺の所有ではない。
 近くは大正8年(1919)に屋根を瓦に葺き替え、建物も若干手直しされた。
 太平洋戦争中疎開児童のため寺は開放され、当時住職であった了勉和尚は召集され戦死し、寺の建物庭園は荒れ放題であった。昭和20年(1945)終戦後、当寺に入山された住職松原善賢師が昭和55年退職された際、東電新多摩線が寺山林にかかり、線下保証金が入った。これを基金として改修工事に着手、昭和59年春2年余を経て完成した。戦時中供出された吊鐘は、堂はこの時の改修工事までは鐘の吊れる状態ではなかった。また、この時の改修の折、慶応年間(1865~1867)に修理された棟札が発見され、今回の修理棟札と共に堂の天井裏に保存した。庭内には町指定の天然記念物高野槇の大樹を始めとして大銀杏、ようやく枯死をまぬがれている老松2本等天高くそびえ、善勝寺の昔日が偲ばれる。
「高野槇の大木開山光代住職が、高野山の槇をみ仏に献するため持ち来り植えたと伝えられる。樹高20m、樹幹3.6 樹齢約800年と推定される」と記載されている。